第3話

 静謐な空気の流れる朝。翔吾が眠っているベットは遮光カーテンに光が阻まれ薄暗い。その時、突然のけたたましい着信音が翔吾の眠りを破った。翔吾はかすかに唸って枕に頭を押し付けたが、爆音の元凶が鎮まることはなかった。無粋で無機質な機械音が翔吾を眠りから目覚めさせようとする。翔吾は無視して眠りにつこうとするが、相手のしつこさも負けていない。


 「ッチ、分かった分かった……でりゃいいんだろ」

 

 渋々降参した翔吾はのそりと顔を起こすと腕を伸ばし枕元のスマホを乱暴に手にとる。

 『葉月麦穂』

 表示された名前を見て翔吾はこめかみをヒクつかせた。目を細めて大きなあくびを落とした翔吾は、スマホを耳にあてて低い声で唸る様に言った。


 「ッうるせえんだよ……朝っぱらから……俺はなァ、他人に叩き起こされることが一番腹立つんだよ」

 『あれ、低血圧ですか。翔吾君』

 「あ゛?」

 

 起こした張本人の麦穂は一周回って驚愕するほどいつも通り飄々としている。翔吾は腹が立ちすぎて逆に頭が冴えるのを感じた。ふー……とゆっくり息を吐いた翔吾は額に手を当て、少し沈黙した。落ち着け、と自分に言い聞かせる。怒ってもどうにもならない相手ってのはいる。麦穂はまさにそうだ、その行動に悪気も邪気もない。本能のままに動くタイプ。きっと、変人こいつに常識を求める方が間違っている。…………だが、ムカつくモンはムカつく。

 翔吾は顔を上げると、低い声で不機嫌そうに言った。

 

 「で、なんだよこんな時間に。よほど大事な用なんだろうな」

 

 ろくな用じゃなかったらさっさとブチ切ってやる。翔吾の眉間の皺は刻み込まれたように深い。


 『ふふ今日は描きたいものがあるんです!ついて来てください!』

 「……」


 正直そんなことだろうとは思っていたのだ。

 麦穂がニコニコとしながら輝くような満面の笑みで言っているところを翔吾は想像してしまった。苛立ちの前にそれが浮かぶ時点で、自分でもマズイと思うほど絆されている。

 

 『今しか描けないんです!お願いします翔吾君!』

 「……場所は?どこに行くんだ」

 

 麦穂が行きたいと言う比較的大きい公園の名前を聞いて、翔吾はどうするかな、と髪をかき上げた。何を見たいのか、描きたいのかは大体予想が着いた。あの公園で今しか描けないものといったら『あれ』だろう。しかし、まだ心に引っかかることがある。


 「なんで俺を誘う? まだ会って一回目だろ」

 『いやー、なんと言いますか……』

 「なんだよ」

 

 非常に言いにくそうに歯切れが悪く麦穂は言葉を濁すので、ただでさえ叩き起こされ気が短くなっている翔吾は苛々して急かした。


 『私一人では目的地に辿り着くのが非常に困難と言いますか……』


 描きたい景色を見つけたとかなんとか言って、勝手に電車から降りていってしまったのを思い出して翔吾は沈黙した。確かにあれでは誰かついててくれた方がいいだろう。見張り役、いや世話係が必要だ。

 

 「……友達ぐらいいるだろ」

 『いません』

 「……一人もか」

 『はい』


 翔吾は沈黙を落とすと、深い深いため息をついた。そして頭をガシガシと掻く。

 このまま切ってしまって眠りにつきたい気持ちと見捨てられない気持ちが半々。

 一度会っただけなのに翔吾はもう確信していた。麦穂は、破天荒で気づけばどこまでも気持ちのままに突っ走る奴だ。周りからすればまるで天災。丁寧なのは口調だけでこいつの根は傍若無人の暴君なのだ。翔吾のことも丁度いいナビ代わりにしか思っていないのだろう。……しかし、困ったことに憎めない。その子供のようなピカピカとした笑顔を思い出すと怒りが萎むのを感じた。彼女のやることに本気で怒れないのだ。しかも、翔吾はあることに思い至った……。

 

 「…………いいぜ行ってやる」

 『本当ですか!!やった!!じゃあアトリエで待ってます!!』


 一方的に切られたスマホを眺めてやれやれと思った翔吾は、出かける準備に取り掛かった。部屋に備え付けてあるテレビをなんとなくつけ、服に着替え始める。テレビの中でアナウンサーが強盗殺人事件のニュースを読み上げていた。

 

 

 

 「あら、翔吾くん。出かけるの?」

 

 広々とした玄関に腰掛け、靴を履いていると翔吾の背後から声がした。母、瑠璃子の声だ。


 「ああ」


 翔吾は振り向かず無愛想に告げると鞄を肩にかけ立ち上がった。寝癖のついた寝巻き姿の瑠璃子は手のひらを合わせると朗らかに言葉を紡いだ。


 「そうなの!じゃあ今日は玲真くんのお誕生日だから早く帰って来てちょうだいね」

 

 その言葉に、思わず翔吾はハッと渇いた笑いを零した。ちっとも笑っていない目で瑠璃子を見た翔吾は口の片端を上げる。

 

 「俺が、仲良くあいつの”お誕生日会”に参加するとでも思ってんのか。プレゼントでも用意しろって?」


 翔吾は馬鹿にしたように鼻先で笑った。翔吾は瑠璃子のことはそこまで嫌いではないが、こういうおっとりとした空気の読めないところは嫌いだった。家にいれば家族団欒に強制的に参加させられるだろうと分かっていて今日は出かけることにしたのだ。自分がいれば地獄のような空気になることは目に見えている。瑠璃子は困ったように頬に手を当てて言った。


 「でも玲真くんは翔吾くんに来てほしいって……」

 「……あいつのそう言うところが嫌いなんだよ」


 自分が嫌われていると思いもしないのか、それとも嫌われていると知ってその行動なのか。どっちにしろ勘に触る。自分を心の底から嫌っている翔吾と仲良くしよう、仲良くできると思っている無神経さとある種の傲慢さがどうも鼻につくのだ。翔吾は扉に手をかけ、淡々と口をひらく。


 「とにかく今日は飯いらねえから」

 「ちょっと、翔吾く──」


 そう告げると、翔吾は返事を待たずに家を出た。




 翔吾は堤防沿いに歩いているとアトリエに続く階段で座り込んでいる人影を見つけた。麦穂だ。麦穂の前の堤防には優雅にくつろぐブチの野良猫がいる、それを彼女は熱心にスケッチしているようだった。翔吾が歩いて近づくと猫は身体をびくりと硬直させ警戒するように翔吾を見て逃げてしまった。麦穂は猫が逃げていってしまった先を名残惜しそうに見ていたが、翔吾に気づいてパッと頬を綻ばせた。


 「翔吾君!」


 大きなリュックを背負う麦穂はスケッチブックを胸に抱えて駆け寄ってくる。心の底から気を許した相手にしか見せないような屈託のない笑みだ。尻尾を振りながら飼い主に駆け寄る犬を思い出して、翔吾は微笑を口角に浮かべた。腹の底でぐるぐると渦巻いていた苛立ちや不満がゆっくりと溶けていくのを翔吾は感じていた。


 「行きましょうか!」


 アトリエの最寄りのあの小さな駅にやってくると、切符を代わりに買ってやって麦穂に渡した。そして海に面した電車に揺られながら、あれこれ指差す麦穂に相槌を打った。

 今のところ麦穂は電車から飛んでいって知らぬ駅に降りてしまうことはなかったので翔吾は気を緩めていた。麦穂にアクシデントはつきものなのだと、翔吾は分かったつもりでも完全には分かっていなかった。それは電車を降りた直後のことだ。


 「あっ」


 顔を強張らせて急に麦穂は立ち止まった。翔吾が振り返ると、ズボンやリュックのポケットに手を突っ込んだりしながら、困ったように麦穂は翔吾の顔を見ている。嫌な予感がした。


 「ハ、切符を無くした?」

 「はい、よくあるんです」

 「よくあってたまるか」


 リュックに入っていた絵の具一式を持たされ、空っぽになった底まで翔吾も確認したがどこにもない。おそらく電車の中に置いて来たんだろう。結局窓口でもう一度買い直すな目になった。翔吾は隣で「まあ、やっちまったもんは仕方ないよね」と言わんばかりにケロッとしている麦穂を見た。呆れて言葉も出ない。一度買った切符を買い直すと言う面倒な時間だと言うのに、翔吾は一周回って興味深い気持ちさえ覚えた。へえ、この世の中には電車に乗るだけの短い時間で切符をなくす人間にも優しい仕組みがあるのだな。

 そうしてようやく改札口を出て、駅を出ようと人がまばらに行き交う駅の中を歩く。公園は駅の近くなのでもうすぐだ。

 ふと、やけに静かだなと後ろを振り向くと──いない。麦穂は影も形も無くなっていた。


 「は、」

 

 目を見開いて咄嗟に辺りを見回すがどこにもいない。『一人だと目的地に辿り着くのが非常に困難』そろそろ翔吾は麦穂が今日の朝言っていた言葉の意味を身に沁みて理解し始めていた。へたな子守より大変だぞ、こいつは。






 

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