第2話

 「ついて行ってもいいか?」

 「いいですよ!」

 

 理由も聞かずに一も二もなく頷いたので翔吾は拍子抜けした。この女、初対面だと言うのに警戒心が死んでいる。

 「電車に乗りたいが、駅の場所が分からない」と言うので最寄りの駅を案内すると、麦穂は券売機の前で電流でも浴びたように固まってしまった。困ったように料金が表示されたパネルと上に貼られた路線表を交互に見ている。こいつ……

 

 「……駅は?」

 

 見かねた翔吾が尋ねると、麦穂は聞いたことのない駅名を答えたので路線表を見てその駅を探す。料金を告げると麦穂は慌ててそのパネルを押していた。こいつ……大丈夫か。逆にどうやってここまで来たんだ。

 

 

 電車が来たのでボーッとしていた麦穂を引っ張り、電車に乗る。まだ夕方前ということもあり席はかなり空いていた。

 ガタンゴトンと振動が腰掛けた椅子から体に伝わり、かすかな眠気を誘う。翔吾はあくびを落として、先ほどからくいくい袖を引っ張って翔吾の名前を呼ぶ麦穂を見た。

 

 「翔吾君、翔吾君、あの通りすぎた家見ました?物語に出てきそうな廃墟ですよね」

 「……見てねえ」

 「そうですか、残念です……次は前もって教えますね!」

 「……」


 翔吾は心の底から困惑した。まず先ほど出会ったばかりだと言うのに遠慮が全くない。色々と助けてやったからだろうか、不思議なほど懐かれている。自分でも中々威圧感がある方だと自覚しているが、この女はニコニコと全く物怖じせず、あろうことか景色を眺めていて見つけた面白い建物を報告してくる。電車に乗っただけだと言うのに、なぜそんなに楽しそうにしているのかが不思議でならなかった。

 

 「わ、見てください翔吾君、ここを通る時の景色は私のお気に入りなんです」


 目を輝かせて背後の窓に張り付いている麦穂に呆れながら、翔吾は言われるがまま振り向いて窓の外の流れる風景に目をやった。翔吾が視線を移してすぐ、街の景色が流れてパッと海一色になる。キラキラと光を反射して海面が輝く様は素直に美しかった。なるほど、海に面した線路を走る電車から見るこの景色をお気に入りだと言う気持ちは分からなくもない。


 「あっ」


 突然麦穂は言葉をこぼした。

 次の瞬間、すく、と立ち上がった麦穂は扉が開いた駅で飛んで降りて行ってしまった。


 「ハ?」

 

 翔吾は一瞬ポカンとした後、慌ててその後を追いかけ同じく電車から降りた。走る麦穂の腕を掴んで思わず叫ぶ。


 「待て!お前、ここは目的地じゃねえだろ」

 「ちょっと行きたいところがッ」

 

 言いながら麦穂はどこにそんな力があるのか駆け足で走って行ってしまう。呆然としている間にみるみるうちにその背は遠ざかる。


 「はあ?ッふざけるなよ……!」

 

 咄嗟に翔吾は訳もわからずその後を追いかけた。なぜ自分でもさっさと帰らずこんな変な女を追いかけたのか分からない。己を振り回すこの女に苛立ちが湧いたが、このまま引き下がるわけにはいかない。負けてなるものかと言うような沸々とした苛立ちと、好奇心がただ翔吾を走らせた。

 麦穂は走りながら公園を見つけると一目散に入って行った。リュックからカメラを出して、構えると海が広がるその景色を麦穂は撮りまくった。夢中になってカメラを構える麦穂に、追いついた翔吾は思わず呆然としたような声が零れていた。


 「お前、突然なんなんだよ……」

 「描いてみたい景色を見つけたんです」


 ニコニコと心の底から嬉しそうにカメラの画像を確認する麦穂に拍子抜けしたように力が抜けた。肺の底からため息を吐くと、翔吾は呆れて麦穂を見た。

 

 「で、満足したかよ」

 「はい!それにしてもよく途中で帰りませんでしたね」

 「お前が言うな」

 

 翔吾は薄々気づいていた。この女はとんでもないじゃじゃ馬だと。

 歩いて道を戻り、駅までやってきた翔吾たちはまた電車に乗った。そうしてようやく着いた目的地は寂れた小さな駅だった。同じように電車を降りた人はほとんどいない。改札口を通ると当たり前だが全く知らない道だ。翔吾は「大丈夫だろうな」と麦穂を見ると、麦穂はパッと明るく笑って宣言した。


 「こっちです!ここからなら絶対迷いません!」


 そして足取り軽く歩き始める。翔吾は胡散臭げにそれを見るとポケットに手を突っ込み後を歩き始めた。小さな踏切を通り、駄菓子屋の前を行き、静かな住宅街を歩く。しばらく歩いていると、ふと翔吾は鼻をスンとさせて微風の中に漂う微かな匂いを嗅いだ。潮の香りがした。翔吾の勘通り、堤防に出た麦穂は今度は海に沿って歩き始める。堤防から見える砂浜にはあまり人はいなく、緑がかった深い青の海がキラキラと光を反射して凪いているだけだった。反対側には水路とコンクリートの壁がそびえ立ちその上には家が並んでいる。


 「あ、翔吾君ここですここ!!」


 麦穂が指差した壁の上には鬱蒼と生い茂った木々や植物に隠れるようにして白く美しい洋館があった。モダンな下見板張りの木造洋館で塔屋には出窓がはめ込まれ、大きな大きな窓が海に面してあるのが印象的だった。窓まわりや装飾部の黒と、ペンキで塗られた真白い外壁のコントラストが完璧な美しさを誇る。翔吾は思わず「すげえな……」と言葉を零した。

 麦穂は「でしょう!」と笑って言うと壁の隙間に挟まるようにしてひっそりとあった階段を二段飛ばしで登り始めた。翔吾も続いて階段を登ると、麦穂は階段の上にある黒い門を開けるところだった。

 翔吾が足を踏み入れたその庭はまるで子供の秘密基地のようだった。ベンチの両側を鎖で吊るしたブランコ、近くには小さな噴水も。麦穂と翔吾が歩くレンガの小道が続く横にはなぜか白い女神の彫像がデカデカと存在を主張し、インフルエンザの時に見る夢みたいな奇妙なブリキの人形が並べてあった。葉を生い茂らせる巨大な樹木にはハンモックが揺れて、その頭上には淡いブルーのツリーハウス。ごちゃごちゃとたくさんのモノや植物が散乱する玩具箱のようなこの庭には、子供の頃なら目を輝かせたであろう。翔吾は少し心を躍らせながらあちこちに視線を注いだ。

 たどり着いたアーチ状の玄関の前で、麦穂はリュックを下ろし手をゴソゴソと突っ込んだ。

 

 「あーと、ちょっと待ってください……確かこの辺に……あったあった!」

 

 鍵を見つけ出した麦穂は嬉しそうに笑う、そして玄関の扉を開け中に入った。玄関をくぐると翔吾は目を見開いた。まず目に飛び込んできたのは天井まで届く大きな窓だ。窓の向こうには青い青い海が広がり、嗅覚を刺激するのは絵の具の匂い。古いフローリングの床は至る所に絵の具が飛び散っている。


 「マジですげえな……お前何者だよ」

 

 翔吾は思わず言葉が口をついて出た。

 ロフトは壁一面キャンバスが収納され、木の梯子が立てかけられていた。ロフト下の棚には、絵の具らしき色鮮やかなボトルや何に使うか分からないものまで雑然と並んでいる。新聞紙を引かれたテーブルの上には数えきれないほど無数の筆が立てられて、絵の具らしきチューブが散乱していた。それはまさに画家の「アトリエ」というふうな部屋だった。

 

「えへへ、実はこの家はおじいちゃんのアトリエなんです。使わせてもらっていて」


 麦穂はリュックをテーブルに下ろしながら言葉を紡いだ。スケッチブックを開き、テキパキと絵の具や筆を用意する。翔吾は麦穂の隣に腰掛けると、肘を突いてその様子を眺めていた。麦穂は鉛筆を持つとさっと軽く下書きを書く。次にスプレーでたっぷり水を吹きかけると、筆で乱雑に色をのせて伸ばした。明るい色、暗い色、強い色、くすんだ色、暖色、寒色。何が描かれるのか予想もつかない。筆を握る麦穂の表情は瞳に力があり、表情は生き生きと輝いている。もう隣にいる翔吾のことなど頭の隅にもないようだった。熱心に紙に視線をおくりながら、絵の具のついた手で鼻を擦るものだから、麦穂の鼻の下が茶色くなった。こうやって頬の青い塗料はついたのだろう。翔吾は飽きることなく絵が出来上がっていくのを眺めていた。迷いなく着々と絵は出来上がっていく。

 

 「珍しいお客さんだね」

 

 突然響いたその声に翔吾が振り向くと一人の老人が扉付近に立っていた。背筋をピンと伸ばしたその人は絵の具の染み一つないシャツを着ていて清潔感があった。そして、笑い皺の刻まれたその目元の瞳はその年に似合わないほど力強い輝きを秘めている。にっこり笑って「こんにちは」と言われたので翔吾は軽く頭を下げた。


 「おじいちゃん、早かったですね」


 麦穂は振り向きもせずに言った。それどころじゃないと言うふうに急かされるように一心に筆を走らせている。翔吾は海だ、と思った。それはあの電車から見た景色だった。車窓から一面に広がる穏やかな海は、水面が太陽の光を反射してキラキラと輝く。それは実際の光景なんかよりもっと鮮烈に翔吾の目に焼き付いた。


 「やっぱり、上手いな……」

 

 翔吾は笑みをこぼした。翔吾はそれなりに多くの音楽や美術品、芸術に触れてきたことがある。だから自分の賛美眼を信用していた。間違いない。こいつは上手いだけじゃなく、才能がある。それも人を惹きつける何かがあるのだ。


 「翔吾君に褒められると俄然やる気が湧いてきますね」

 

 嬉しそうに笑った麦穂。翔吾はそれを見て口角をあげると立ち上がった。麦穂が尋ねる。


 「帰るんですか?」

 「ああ、また連絡する。スマホ出せよ」

 

 窓の外は日が落ち始めていた。

 帰り際。麦穂の祖父、葉月春草はいかにも不良然とした翔吾の何を気に入ったのか「また来るといいよ」とニコニコとして言った。


 






 

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