絵描き娘と不良

一夏茜

第1話

 小さな白い煙が青い空に向かってゆらゆらと伸びていく。雲一つない晴天の中、日は燦々と降り注ぎ小鳥は囀る。柔らかい風が木々の幼い緑を揺する春。しかし、この世の全てがつまらないという顔をして屋上の柵に寄りかかり煙草を薄い唇に咥える男がここに一人。艶のある黒髪から覗く野生み溢れる切れ長の瞳は、よく見れば光の加減で緑がかって見え、目を伏せた時のけぶるような睫毛は色気が匂い立つようだった。彫刻のように美しい顔をしていたが、服の上からでも分かる筋肉質な大柄な体と、今も苛立ったように寄せた眉間の皺が近寄りがたい雰囲気を放つ。要するに、よほど度胸のある者しか寄せ付けないような凄みのある男だったのだ。耳にはシルバーのシンプルなピアスが光り、胸元があいた制服は大胆に着崩している。……そう制服。とても高校生には見えないこの男の名は夜陣翔吾。この物語の主人公だ。


 翔吾は息を吐き出すとしばらく煙草からまっすぐ立ち上る煙を眺めていた。真っ青な空に煙が一筋の糸のように流れ、日差しの中で細かな粒のようにきらめく。この街を見下ろして風に吹かれては消えていくこの煙になれたらどんなに楽なことだろうと柄にもなく翔吾は思った。いや、この心底つまらない毎日から抜け出せるのならなんでもよかった。この人生から逃げ出せるのであればなんでも。

 つまるところ、翔吾は退屈だったのだ。どこにもいけない。何にもなれない。何も変わらないこの毎日。息苦しさが煙が立ち込めるように胸の内を燻っていた。女でもひっかけるか喧嘩でもしてこのうさをパッと晴らしてしまいたい気分だった。

 間延びしたチャイムが鳴る。翔吾はため息を吐くと煙草を足で揉み消した。


 教室に戻ると、数人のクラスメートが残って談笑していた。が、皆翔吾の顔を見ると顔をこわばらせた。

 数日前に学校まで乗り込んできた不良を殴り飛ばしたのがそんなに効いたのか。ここの学校はそこそこ有名な治安のいい進学校なため、翔吾のような不良は一人もいない。温室育ちの坊っちゃんやお嬢ちゃんには刺激が強すぎたかと翔吾は思った。

 名も知らぬクラスメートたちは今も凍りついたように息を潜めて、かわいそうなくらいに縮こまっている。翔吾はヘラりと笑うと机にかけてあった鞄を指さした。

 

 「わりいな、鞄取りにきただけだ」

 

 置かれた机の間を縫って軽い鞄を引っ掴むと足早に静まりかえった教室を出た。自分がいつまでもいては安心できないだろうと翔吾なりの気遣いだった。ああも怯えられると腹も立たない。

 校門を出て歩き出した翔吾はあくびをこぼしながらどうしようか、と頭を掻いた。手元のスマホにはよく連む悪友共や顔も思い出せない女の連絡先が並んでいる。これから時間を潰すのに適当な奴は……と目を滑らせていると背後から声がした。

 

 「テメエが夜陣だな」

 「あ?」

 

 振り向くと、学ランを着崩した金髪で短髪の男がポケットに手を突っ込みこちらを強く睨みつけていた。じゃらじゃらとその耳にはピアスがつき、眉は剃り込みが入っている。

 

 「エリのことだ。面ァかせよ」

 

 くい、と顎を動かし尊大についてくるように示すと男はスタスタと歩き始めてしまう。翔吾がついてくることを疑いもしないそのスタンスに呆れた翔吾は少し考えた後、まあいいかとその男の後を歩き始めた。男が告げた女の名前に覚えがあるわけでもなかったが、暇を潰すにはちょうどいいかと思ったのだ。男はどんどん人が少ない道を進み、薄暗い路地裏に入って立ち止まった。スプレー缶で落書きされたその壁を眺めて翔吾は少し感心する。学校の近くにこんなところがあったとは。なるほどここなら人の目を気にすることはないだろう。男は振り返ると、いきなり翔吾の胸ぐらを掴み引き寄せた。額を突き合わせるような距離で翔吾は青筋を浮かべる男を観察した。何したか覚えてねえけど、こいつ相当怒り狂ってるな。翔吾は殴りかかってきた拳を受け止めると、口角をあげながら語りかけた。 

 

 「おい、いきなりだな。やり合う前に教えてくれよ、これはどういう喧嘩だ?」

 「テメエ……!!舐めてんのか?テメエが人の女にちょっかい出しやがったんだろうが!!」

 「ああ、なるほどな」

 

 まあ、なんとなくそうじゃないかという気もしていたのだが、予想が当たっても嬉しくもなんともなかった。なんなら少しがっかりとした気分だ。確かに言われてみればそんな名がスマホの連絡先欄にあったような気もする。

 

 「そんじゃま、お望み通り……」

 

 そうしてため息をついて拳を握って振り抜こうとしたその時だ。

 どこからともなくシャッシャッシャッという音が聞こえてきたのは。

 

 振り向くと一人の女が膝を立てて座り込みスケッチブックに鉛筆を走らせていた。時折こちらに視線を向けては熱心に音を立てて鉛筆を走らせる。

 

 「あ、私のことは気にせず!そのまま、そのまま続けてください!」

 

 何のかげりもない眩しいような笑顔だった。この場にあまりに不釣り合いなその笑顔に唖然とする。おそらく同じくらいの年だろう。色素の薄い茶髪は癖毛のミディアム。そのあめ玉みたいな瞳はキラキラと好奇心に燃え輝いている。頬に真っ青な塗料がついていた。

 

 「は?舐めてんのか、なんなんだよテメエ」

 

 ドン引きしていた金髪は気を取り直すとそいつにも絡み始めた。

 

 「舐めてはないです、描いてはいましたが」

 

 しかし押され気味である。翔吾は自然と自分の口角が上がっているのに気づいて口を抑えた。自分より大柄な厳つい男に胸ぐらを掴まれ凄まれながらも、鉛筆を離さずニコニコしているその女を、少し面白いと感じている自分に翔吾は気づいていた。

 金髪の男は最初は引き気味だったものの、だんだん苛立ちが混じり今にも女に殴りかかりそうになっている。翔吾は興味とほんの少しの善意から助けてやることにした。女の胸ぐらを掴む手を翔吾は掴み、捻り上げると血管が浮き出るくらい力一杯握りしめた。

 

 「テメエ離せ……離せよッ……離せったらッ」

 

 男は苦悶の表情を浮かべながら、その手を引き剥がそうと爪を立てるが、翔吾の表情はぴくりとも動かない。次第に男の瞳には畏れのような色が浮かび始める。

 

 「ッ……離せッ……離してくれ……悪かった、俺が悪かったから……!!」

 「お前……この程度で俺に挑んだのか」

 

 呆れたように翔吾は言うと、拳を振りかぶり躊躇なく男の頬を殴った。呻き声をあげて男は壁にぶつかる。見上げたその目に今度はしっかりと恐怖が宿っているのを眺めて、翔吾はまあこれくらいで勘弁してやるかと思った。

 

 「行けよ」

 

 先ほど男がやったように尊大にくい、と顎で通りの方を示す。男は悔しげに鼻血を手の甲で拭うと、転がるように立ち上がり走り去っていった。

 

 「……で、お前は何だ?」

 

 翔吾の目線が、いまだに蹲って鉛筆を動かす女に移る。今の間も熱心に絵を描いていたこの女は、翔吾が今まで見たことのないタイプだった。胸ぐらを掴まれ拳を振りかざされてもニコニコしていたし、相当頭がおかしいのか、それとも何か策があったのか。喧嘩ができるようにも見えないが。体つきは筋肉のあまりついていない平均的な十代の女のものに見えるし、鉛筆を握る手も絵の具だらけだが傷一つない。

 

 「何と言われましても……葉月麦穂といいます!絵を描いていました!」

 「それくらい見れば分かる」

 

 麦穂は頬を上気させて心の底から嬉しそうに笑った。立ち上がった麦穂の背は小さく、見下ろすとぴょんぴょんと跳ねたアホ毛とつむじが見えた。パンパンのリュックを背負っていて、左右で違う靴下を履いている。なんだこの女……と率直に翔吾は思った。

 

 「それ、見せてみろよ」

 

 ちらりと見えたスケッチブックに描かれた”それ”に興味を惹かれた翔吾は手を差し出した。麦穂はなんの疑問も抱かず素直に差し出す。そのスケッチブックには”翔吾”が描かれていた。無表情の翔吾。切長の瞳を流し、口角をあげる翔吾。獰猛な笑みを浮かべ、拳を握り振り抜く翔吾が。色もついていない鉛筆で描かれたデッサン、しかも描かれているのは自分だと言うのに気圧されるような感覚を感じて翔吾は唾を飲み、思わず笑みを浮かべた。

 

 「お前……上手いじゃねえか。すげえな……」

 「へへ、ありがとうございます!!」

 

 麦穂は照れくさそうに口を緩めて笑った。すでに翔吾は、この女に興味を抱いてしまっていた。

 

 「この後予定はあるのか?」

 「アトリエに戻るつもりですけど……」

 

 尋ねたのは純粋なる好奇心からだ。この奇妙な女についてもっと知りたい。何かが変わるような小さな予感を翔吾は感じた。期待と口角が上がる程度の高揚感。

 しかしこれが人生を変えるほどの出会いになるとは、この時はまだ思いもよらなかったのだ。

 

 


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