後編



 気付けば夜も深くなってきていた。女の「何も聞いていない」という言葉が真実かどうかはともかくとして、そろそろお暇した方が良いだろう。

 そう考え、別れの言葉を考え始めた憂に静が告げた。


「良ければ泊まっていってください」

「いえ、そんな。不躾な質問を繰り返しただけでも礼を失しているのに……」

「夜の山道は危ないですから。私の私室にだけは入らないと約束していただければ、お泊めしますよ。食事は提供できませんが、幸いにも、歩いてすぐの場所にコンビニがあります」


 それに、と彼女は続ける。


「まだ『M資金』の手掛かりを得られていないでしょう? 家の中を見れば、何か分かるかもしれません」

「それはそうですが……」


 結局、憂はこの地方の一軒家で一晩を過ごすことになった。

 何故だろうか? 静の試すような口振りに、違和感を覚えたから? 「やはり、この女は何かを知っている」――そんな予感めいた推測を立ててしまったからだろうか。

 近隣のコンビニからの帰路。調達したサンドイッチを頬張り、飲料水を口へと運びつつ、憂は思案する。

 静が何かを知っているとして、どうやってそれを聞き出せばいいのか。あるいは、あの物言いから察するに、家の中にヒントがあるのか? 『M資金』という、詐欺でしか見つかっていない幻の資金の隠し場所に繋がる手掛かりが。

 腕づくで聞き出すか? ……いや、下卑た真似はしたくない。

 彼女に好意があるわけではない。単に、ポリシーの問題だ。革命は成功という結果に辿り着かなければ意味がないが、どんな手段も許されるわけではない。どんな過程を辿っても良いわけではないのだ。『理想』とは、何よりも心の在り様の問題なのだから。

 みすぼらしい一軒家に戻ると、私室に向かう静に遭遇した。風呂上りのようで、長い黒髪は濡れており、頬が紅潮している。「お風呂はそこの扉の奥です。ご自由にどうぞ」。そう言い残すと、静は一番奥の洋室に引っ込んだ。がちゃり、という鍵を閉める音。どうやらそこが彼女の寝室らしい。

 微かに聞こえるドライヤーの音をBGM代わりにして、憂は家の中を見て回る。とは言え、最初に通された応接用の和室以外では、リビングダイニングくらいしか観察できる場所もなかったが。

 リビングの書棚には本が詰まっていたが、うっすらと埃が積もっていた。どうやらこれも彼女の親の持ち物らしい。実の両親のものか、義父である淀敬のものかは分からないが、金融や経済の専門書、詐欺の手口を分析した書籍というラインナップから察するに、淀敬の所有物と思える。この一軒家を避暑地代わりにでもしていたのだろうか?

 ダイニングの椅子に座り、秒針の音を聞きながら考えを巡らせていると、不意に自動車のエンジン音が聞こえた。次いで、ブレーキの音。壁に掛かっている時計を見る。時刻は十時を回ったところだった。

 インターホンがなった。一度。続けて、もう一度。


「こんな夜更けになんだろう……」


 奥の私室から出てきた静は、憂に軽く頭を下げて、玄関へと向かう。

 嫌な予感がした。そして、その予感は現実のものとなった。電化製品がショートしたような音が夜に響き渡った。時を置かず、何かが落ちる音。否、スタンガンの電撃で静が倒れたのだ。

 憂の行動は早かった。すぐさま、隣の部屋に飾ってあった日本刀を掴むと、玄関に向かった。

 倒れ伏している静。それを抱き抱えようとしゃがみ込んでいるブルゾン姿の男。片手にはスタンガン。もう片方の手にはサバイバルナイフがあった。「俺の所為だ」。すぐに理解する。淀敬から朱雀門憂に言伝が連絡される中で、何処かで情報が漏れたのだろう。『M資金』の手掛かりを、その女が握っているという情報が。


「……、ぇ……っ!」


「逃げて」。静はそう言ったようだった。誰が逃げるか。時間的余裕があれば、憂はそう吐き捨てたことだろう。倒れ伏した女を捨てて逃げるなど、日本男児のすることではない。知ってるか? 一宿の恩を忘れる人間など、畜生以下だ。

 ブルゾンの男が襲い掛かってくる。逆手に刃物を構えるスタンスで分かる。相手はプロだ。軍用格闘術の使い手。この狭い室内では、太刀という長物よりも、ナイフの方が圧倒的に有利。

 だが、こんな事態を想定して、憂は鍛錬を積んできている。日本を壊し、理想を実現する為には、暴力が必要になる場面もある。それは死地。まさに、今のような状況だ。特に日本刀は、手足のように使える。

 刃が三尺を超える太刀を横薙ぎに抜刀。峰に添えた左手で押し込むように刃を振るう。天心流兵法『十方』。男はその一撃をナイフで受け止めたが、片手のナイフと両手の刀、有利不利は一目瞭然だった。

 その逡巡が全てを決した。瞬間、憂は白刃を操り、相手の注意を上方に向けさせながら、同時に足を払った。鍔迫り合いからの足掛け。古武術の技。倒れた男の頭を峰で打ち据えた。


「大丈夫か!? 大丈夫なら、紐かガムテープの場所を教えてほしい。コイツを拘束しておかないと」

「そこの、戸棚の右側……」


 ガムテープで男の手足、ついでに口も封じてから、憂は訊ねる。


「……心当たりは?」

「ううん、何も……。父ならまだしも、私を狙うなんて……」

「じゃあ、やっぱり俺の所為だな。俺がここに来た所為だ」

「そんなこと……!」


 そう口にはしたものの、彼女も分かっているらしかった。淀敬からの伝言を憂が受け取った日、その日の夜に静が襲われた。関係がない方がおかしい。

 真相はコイツの上司に聞くことにしよう。耳を欹てれば、車のエンジン音が聞こえる。プロの始末屋を送り込み、自身は車内で待っている人間。十中八九、この刺客の上司か雇い主だ。


「……けりを付けてくる」


言った憂の背に、「待って!」と静は縋り付く。


「まさか……殺すの?」

「多分な」

「そんな……!」

「じゃないと、お前が殺されるかもしれない。死にたくはないだろ?」


 静は小さく頷いた。

 けれども、すぐに、


「……死にたくない。でも……。人を殺してまで、生きていたくないよ……!」


 と、呟いた。

 ああ、そうか。そうだよな。それが普通の善性。彼女のような人間が報われる社会を作る為に、憂は革命家を目指し、血で血を洗う裏の世界に足を踏み入れた。だから、戦おう。たとえ彼女に非難され、軽蔑されたとしても。


「……そうか。でも俺は、お前に生きていてほしいと思うんだ。たとえ、人を殺すことになったとしても」


 誰にも文句は、言わせない。







 車内で煙草を吸っていたスーツ姿の男は、日本刀を帯びた少年を見て驚いたようだった。しかし、すぐにどういうことか悟ったらしく、車のドアを蹴り開け、それを遮蔽代わりにした。

 一瞬間、ちらと見えたのは拳銃。マカロフだった。こちらは日本刀一振り。まともな感覚ならば勝てるはずがない。けれど、憂は不思議と負ける気がしなかった。


「あの野郎……! 何が一流の殺し屋だ……!」


 吐き捨てた男の目、その自信なさげな態度で分かる。素人だ。薬物の類を吸入して、ようやく人を殺す踏ん切りが付く程度の人間。思い起こせば、その横顔を憂は知っていた。淀敬の実子の一人だった。

 得心する。自分の父の遺産が、何処の誰とも知れぬ相手に、しかもそれが「日本を変える」だなんてほざいている夢想家に渡ると知れば、強奪しに掛かる者もいるだろう。


「お前も愛国者気取りの右翼野郎か!? 馬鹿が! 今時、“愛国心”だなんて流行らねぇんだよ!!」


 男が叫ぶ。

 かもな、と憂は応じた。

 でも、国がなければ生きていけないのが人間だ。


「第一、在日なんざ、殺されて当然のゴミだろうが!」

「……確かに俺は差別主義者だが……。それでも、『外国人だから殺していい』なんて考えたら、人としておしまいだろうがよ……!」


 憂がその身を疾駆させる。

 白刃が月夜に煌めき、それで終わりだった。







 夜の波止場に朱雀門憂は立っていた。明け方の暗い時間は去った。夜は終わったのだ。

 憂は男を殺さなかった。静の為だ。仮にも義理の兄、殺めれば遺恨が残る。それに、生かしておいた方が淀敬も隠蔽がしやすいだろうと読んだ。老いても枯れてもフィクサーだ、そのくらいの力はある。


「憂さん」


 後ろから静が声を掛けてくる。そう言えばはじめて名前を呼ばれたな、なんて思いつつ振り返る。

 女の手には刀があった。


「これは、差し上げます。日本刀という、人を殺す武器を持ちながら、兄を殺さないでいてくれたお礼です」

「はは、そりゃどうも。でも、違うね。知らないのか? 刀っていうのは、分けるものさ。ウチとソト、……敵と味方をな」


 言葉に静は応えず、代わりに、


「『M資金』について、もう分かったんじゃないですか?」


 と笑った。

 憂は首肯する。


「『「M資金」は幻想だ』と、お前は言ったな。その言葉の通りだったんだろ? M。だが、MM

「仰る通りです」


 日本という国を変える為の軍資金に、これほど相応しいものもない。

 日本という幻想の国。続く戦後。それを変える為に必要なのは、結局は、心なのだ。宗教国家でも戦勝国でもないこの国に必要なのは、理想を抱く心。生まれて良かったと思える社会だ。

 そして、理想とは、幻想である。


「……私は、あなたのことが好き」


 唐突に静が言った。

 憂は微かに笑い、「そうか」と応じて、


「……俺は多分、お前のことが嫌いだ」


 と告げた。

 受け取った刃は二人が交わることがないよう、分けているかのようだった。

 今は、まだ。


 空と海が混じる水平線は、日の出の光で輝いていた。


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