前編



 ある地方都市の小さな埠頭であった。

 時間は明け方。倉庫を一歩出て、水平線に目を遣れば、厚く、低く広がった雲が、海と溶け合っているのが見えるだろう。それが世界に蓋をしているかのように思えるのは、夜明け前の最も暗い時間帯だからか。

 あるいはそれは、この国の現状のようでもあった。

 水平線を見つめていた少年は、昨日出逢ったばかりの女との会話を思い出す。


『あなたは……。どうして、日本を壊そうと思ったんですか?』


 だって、あなたは恵まれていて。

 私と違って、日本育ちの日本人で。

 何も不自由していないじゃない。

 そう言わんばかりの問いに、少年、朱雀門すざくもんういは、「どうしてだろうな」と自問した。

 しかし、何にせよ憂は決めたのだ。

 テロを起こし、世界を作り変えることを。

 平和を壊せ。日本を変えろ。

 その為には、女が握っている情報がいる。


『M資金』――そう呼ばれる、秘密資金に繋がる情報が。







 八人掛けの長座席に座っている乗客は一人しかいない。朱雀門憂だけだ。

 席に座る乗客がいない、というよりも、電車そのものが閑散としている、と言った方が正しい。都会生まれの憂にとっては単線車両自体が珍しかった。電車は一時間に一本が来れば良い方という空白だらけのダイヤグラムも、夕刻、さして遅い時間でもないのにガラガラの車内も、映画の中の光景だ。

 東海道・山陽メガロポリスという四大都市圏が日本の全てではないことは、知識としては理解している。日本人の半分は、東京・大阪・名古屋・福岡といった大都市とその近郊に暮らしているが、残りの半分は地方に住んでいるのだ。

 それでも、都心から二、三時間も電車に揺られれば、こんな僻地に辿り着くのかと多少ならず驚愕したし、確かな筋からの情報のはずだが、「……本当にこんな田舎に?」という思いがあるのも厳然たる事実だった。

 事の発端は数ヵ月前に遡る。日本経済界の大物が一人、よどたかしが体調を崩した。

 海千山千のフィクサーも寄る年波には勝てないということだろうか。彼が務めていた顧問、理事、相談役、その他諸々の役職は、あっという間に後継者が見つかり、『戦後の亡霊』とまで呼ばれた男は隠居と相成った。今や病院のベッドでとろみ付きの食事を提供される、ただの高齢患者だ。

 ここまでは表向きの話。一般紙には載っていないだろうが、経済紙や業界紙を購読する層ならば誰でも知っている。

 一方、この国の裏を知る人間が「淀敬」と聞けば、「『秋丸』のパトロン」と反射的に連想するだろう。

『秋丸』――正式名称、『全日本総力戦研究会』。先の大戦中、陸海軍のエリートを集め開設した、大日本帝国内閣総理大臣直轄研究機関・『総力戦研究所』。及び、その前身たる『陸軍省戦争経済研究班』。通称、『秋丸機関』。それらの流れを汲む秘密組織が、『全日本総力戦研究会』である。

 早い話が、日本における数少ない秘密結社のメンバーの一人であり、資金繰りを取り仕切っていた人間なのだ。

 そして、その“資金繰り”とは、「『M資金』を運用すること」だったらしい。

 戦後より、不定期に噂されながら、それら全てが良くて流言飛語の類、悪ければ組織的詐欺。それが『M資金』である。戦後にGHQが接収した財産とも、旧日本軍の隠し資金とも言われているが、真相は不明だ。

 何せ、これまで出てきた情報全てが、ただの噂話か、若しくは詐欺なのだから。

 ……俺だって、直接話を聞いてなきゃ、信じなかったさ。

 窓に映った自身に笑われているように思えて、言い訳がましく心の中で呟く。

 憂は一度だけ、淀敬に会ったことがある。

 それは、憂がこの活動を始めたばかりの頃、即ちは、暴力やテロも含んだあらゆる手段を用い、この国を変革してみせると決めた頃だった。

 思えば、あの時、既に『戦後の亡霊』は、死期……とは言わずとも、自らの衰えを悟っていたのかもしれない。だからこそ、革命家を目指す少年に、あんなことを言ったのだろう。


『お前の志が本物だと分かったら、援助してやる。その用意くらいはある』


 そして、今日の午前。淀敬の代理を名乗る者が現れた。伝令役のスーツの男は「末の娘に会え。『M資金』について伝えてある、とのことです」と語り、憂は急いで準備を整え、この田舎に向かったのだ。

 確かな筋からの情報とは、詰まる所、『M資金』を運用しているとされる淀敬本人からの伝言だった。

 これが妄言や詐欺ならばいい笑いものだと自嘲して、


「……お返しに、その娘の写真でも撮って、見せに行ってやるか」


 と誰に聞かせるでもなく、憂は口にした。

 車掌と少年しか乗っていない電車は間もなく目的地に到着する。







 残暑、と呼ぶには暑過ぎる夕日の中に憂は降り立った。十月だというのにまだ暑い。こんな人も車も少ない僻地ならヒートアイランド現象もないだろうに、などと思いつつ、電車と同じく人気のない駅を出る。

 出発が大学の講義終わりだったため、到着は夕方になってしまった。帰宅ラッシュの時間帯だというのに混み合う気配のまるでない小さな駅舎は、老朽化が進んでおり、自動改札だけが真新しかった。駅前も似たようなもので、タクシー乗り場どころかコンビニすらない。自販機だけが熱心に活動している有り様だ。

 田舎。その一言がしっくり来る場所だ。

 目的地は淀敬の末女の住まう一軒家。歩いて三十分ほどの距離だ。鞄を背負い直し、海沿いの県道を歩き始めた。

 夜の帳に包まれていく海を見つつ、時折通る地元の車に追い越されながら足を進めていく。グーグルマップで調べた内容を脳裏に思い起こしつつ、交差点を曲がる。やがて、一軒の家の前に辿り着いた。

 日本家屋風の一軒家は、実にこじんまりとした佇まいで、「離れ座敷のようだ」と表現すれば聞こえは良いが、あばら家という評価が妥当なところだろう。こんな田舎だ、土地なんて余っているだろうにと独り言ち、表札を確かめてから、インターホンを押し込んだ。

 ややあって、戸の奥から声がした。


「……どちら様ですか?」


 独特のイントネーションの、若い女の声。

 憂は、「淀敬様のご息女、静様ですね?」と問う。

 女、淀しずかは暫し考えていたようだったが、


「そうです」


 と応じた。


「僕は朱雀門と言います。お父様から『資金』のことを聞いて、参上した次第です」


 またも、暫しの沈黙。

 やがて戸が開いた。

 立っていたのは黒髪の若い女だった。憂と、そう、年は変わらないだろう。確か、二つ年上だったはずだ。

 実のところ、憂は彼女の容姿も、年齢も、家族構成も知っていた。母親が死去してからはずっと、一人で住んでいることも。仮にも『赤羽党』という秘密組織に所属するテロリストだ、それくらいの下調べはする。それが、日本経済界のフィクサーとその『資金』――『M資金』に関する内容ならば当然の準備と言えた。

 どうぞ、と小さな声で促され、応接間らしき和室に通される。

 家の中は質素で古びてこそいるが、綺麗なものだった。床の間に飾ってある白鞘の太刀だけが立派で、部屋の中で浮いている。しかも、飾り方が逆なので、憂のように日本文化に精通している者からすると、余計に奇妙に思える。

 太刀を刀掛けに置く場合、「佩表はきおもて」と言って、刃が下を向くように飾るのだ。通常の日本刀、つまり打刀の場合は刀身を上になるように飾る。

 きっと、あれは彼女の所有物ではなく、淀敬の持ち物か、実の父の形見か何かなのだろう。それを、時代劇を見て、見様見真似で飾ってみたのだ。間違っていることは仕方がない。専門的な知識であるし、何より彼女は日本人ではないのだから。

 ……いや、これは差別だな。

 出されたコーヒーを見つめながら憂は反省する。

 法律上は「淀静」は日本人である。ただ、実の両親が在日中国人であっただけ。

 所謂、「在日二世」であるだけで。

 淀静は養女だった。両親に先立たれた彼女を、淀敬が引き取ったのだ。理由は分からない。淀敬は子には恵まれていたし、またナショナリストだった。世間様による分かりやすい愛国者像は、自国中心主義的で、外国人を差別する者だろう。どうやら淀敬はその類の人種ではなかったらしい。


「どうぞ、足を崩して、楽にしてください。畏まって喋られると、私も緊張しますから……」


 対面に腰掛けた静は、名前通りに静かにそう告げた。

 好意に甘えた憂は礼を告げ、コーヒーを飲むフリをした。

 他人から出された飲食物には手を付けない。人を欺き、傷付け、時には殺す世界の常識だ。『M資金』の情報以上に、彼女のことを、憂は信用していない。彼女に悪感情を抱いているわけではない。信用に足る理由がないから、信用していないのだ。

 静は言う。


「朱雀門さんは、その……」

「なんでしょうか」

「……どういった、ご身分の方なんですか?」


 当然の疑問だった。


「父、敬からは、『「M資金」について尋ねてくる少年がいると思う』としか聞いていないので……」

「ああ」


 静の言葉が真実かどうか、憂に判別する方法はないが、しかし、返答だけは決まっている。


「僕が何者かは、聞かない方が良いと思います。恐らく、お父様も、あなたに厄介事が降り掛かることを嫌って、仔細を伝えなかったのでしょうから。幸運にも、あなたのお父様と縁があった人間、とだけ思っていただけたら」


 本心だった。

 憂は愛国者であり、また、差別主義者を自称しているものの、外国人や在日二世・三世を嫌っているわけではない。ただ、彼等彼女等とは住む世界が違うと、「棲み分けるべき相手だ」と認識しているだけで。

 郷に入っては郷に従え。ならば、日本では日本の文化に従うべきであるし、日本人も、海外に赴けば現地の風習を守らなければならない。それができないならば、交流すべきではないし、排斥されたとしても仕方がない。

 それが朱雀門憂の、そして『赤羽党』の基本的な考え方だった。


「つまり、憂国の士、革命家の方なんですね」


 コーヒーで唇を湿らせ、静は笑った。

 そう思っていただいても結構です、と憂は首肯した。


「わざわざ来ていただいて申し訳ないのですが、『M資金』のことは、父から何も聞いていないんです」

「そうですか」


 予想されていた答えの一つだ。

 ただ、と静は続ける。


「父はこう言っていました。『「M資金」は幻想だ』『戦後日本がそうであるように』と。……何か、分かりそうですか?」

「……いえ。それは、お父様の正直な胸の内でしょう」


 だからこそ、淀敬は『秋丸』に協力していたし、朱雀門憂は『赤羽党』として活動している。

 戦後日本の幻想を壊し、真の一つの国家として作り変える為に。

 それでも、大多数はその“幻想”の上に生きている。そう理解しながらも。







 暫しの沈黙が二人の間を支配した。

 口火を切ったのは憂だった。


「不躾なことを聞きますが、あなたはどうして、淀家に引き取られたのですか?」

「気になりますよね。私も一度、聞いたことがあります」


 日本語履修者特有の、独特なイントネーションで静は答えた。


「父、敬は若い頃、満州にいたそうです。日本の敗戦後は苦労したそうで、引き揚げまでの間、私の祖父に当たる相手に助けてもらったと。一宿一飯の恩義、一食の恩は犬畜生も忘れぬ、況や人をや、と……」

「ご立派な心掛けだと思います」

「引き取られた、とは言っても、私はずっとこのボロ家に住んでいるので、戸籍だけのことですが。一人になっても、淀家に行けば立派な生活ができると分かっていても、やはり、生まれた家が一番過ごしやすいものです。……『M資金』のヒントになりましたか?」


 試すような問い掛けには、「いえ、それもお父様の正直なお言葉でしょう」と返すに留めた。

 今度は静が質問する番だった。


「あなたは……。どうして、日本を壊そうと思ったんですか?」

「壊す、ですか……」

「違いますか?」


 違いませんね、と憂は真っ直ぐに女を見つめた。


「立ち振る舞いで分かります。あなたは恵まれた家庭の生まれですし、とても頭が良い。だからこそ疑問なんです。この国を変えたいと思うのが……」

「そうですか。そうですよね……」


 静の言うことは当たっていた。上流階級の家に生まれ、一流の高校を出て一流の大学に入った。絵に描いたような勝ち組の若者だ。

 就職先は省庁? それとも大手銀行? あるいは、グローバルな海外企業? そんな彼が、大学生活の傍ら、日本を壊そうとするテロ活動を企画していると聞いたなら、大抵の者は同じ疑問を抱くだろう。「一体、何故?」と。「何が不満なんだ?」と。

 しかし、それこそが憂の許せないことだった。

 そんなことで幸福が決まると考えられている社会が嫌になってしまったのだ。


『……どうしてだろうな。急に、バカらしくなったんだ。安全とか、平和とか……。そういう、この国の“幻想”が』


 もし、取り繕わずに答えるならば、少年はそう言っただろう。

 成功者が持て囃され、経済成長と個人主義が礼賛される日本という国そのものが、馬鹿らしくなってしまった。

 自らの国にも民族にも誇りを持たず、どころか、愛国心そのものを嫌う国民性。長く続く戦後は国民の謙虚さを自罰性へと変え、歴史と戦争の問題を「ただ謝罪すればいい」「それは自分に関係ない」と無関心な態度を取る者と、大して世界のことを知りもしないのに何かに付けて「諸外国では」と持論を展開し、私は他の日本人とは違うと自負する愚か者を無数に生み出した。馬鹿らしいにもほどがある。

 戦後は終わっていない。災禍を、自らと、そして他者の過ちを清算しなければ、戦後というものは終わらない。

 右も左も片手落ちだ。かつての日本の過ちを責め悦に浸り、何一つ生産的なことをしない左翼。あの時代では当然だったと開き直り、軍国主義を賛美する右翼。何年経っても進歩がない。

 進歩がないのは国の構造そのものだってそうだ。食料、エネルギー、何より軍事力。明日、小麦の輸入が止まったらと真面目に考えている者がどれだけいる? 人気取りばかりに躍起になっている議員連中は、十年先、百年先の電力事情について語りもしない。在日米軍も、領空・領海侵犯も、全てが当たり前になってしまい、異常なことだと認識すらしていない。

 何一つとして自立していないのが「日本」という幻想の国だ。馬鹿らしく、そして腹が立つ。


「『日本は好きだよ。“日本人”は嫌いだ』。……一言で言えば、そうなるんでしょうね」


 歴史という書物は、常に勝者によって記される。「トチ狂ったガキの反乱程度で壊れる国なら、アメリカさんにでも統治してもらった方がいい」。それが朱雀門憂の偽らざる本音だった。

 断片的な言の葉に、何を見出したのだろうか。

 静は言った。


「父も、そういう男でした」


 それがどういう意味を含んだ言葉なのかどうか分からないまま、憂はただ、ありがとうございますと頭を下げた。




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