38
私は呆然としながら、静かにへたり込む。
そんな私のことを、睡蓮は哀しそうに見つめていた。
そうだった。
私は、虐められていたことがあった。
閉ざされていた記憶が一気に蘇って、その恐ろしい幾つもの光景に、私は叫び出してしまいそうになる。全身ががくがくと震え出して、今は再び立つことはできそうになかった。
――思えば、幾つも兆候はあった。
頬の傷がどうして付いたのか覚えていないのは、彼女と喧嘩したときにできたから。
秋の匂いが何故か怖く感じるのは、虐められるようになったのが秋の頃だったから。
中学生のときの友人が連絡先から全部消えているのは、もう友人ではなかったから。
自然公園での記憶が所々抜け落ちているのは、それが虐めの話と関連していたから。
かつての私は時折そういったことに疑問を感じながらも、結局何も解き明かすことができずに日々を送っていた。
それは、睡蓮の力によって守られていたからだったのだ。
「うっ……うう……」
心的外傷を急に思い出したことによる驚きや恐怖と、それを睡蓮が閉ざしてくれていたことへの感謝や嬉しさで、私の感情はぐちゃぐちゃになっていた。目にはじんわりと涙が浮かび、美しい湖の景色が段々と滲んでいく。
「……なあ、琴子」
声のした方を見れば、前屈みになった睡蓮が目の前にいる。
「…………睡蓮」
私はただ、彼女の名前を呼んだ。
睡蓮は痛ましげな表情を浮かべながら、そっと口を開いた。
「これで、わたしの言っていたことの意味がわかっただろう? 『昔の君』は、虐められていたことがあった。そして、その記憶によって希死念慮を抱くほどに苦しんでいた。……そのために、わたしは世界から虐めを一つ残らず消し去りたいと思った」
睡蓮はそこで一拍置いて、真っ直ぐに私を見据える。
「辛い記憶を抱え続けるのは、苦しいだろう? 悲しいだろう? だからわたしは、君に一つ提案をしたい。虐めの記憶もわたしとの日々も全て忘れてしまって、それで向こうの世界に帰るんだ。わたしの力を使えばそれが可能で、そして、そうすれば……君はきっと、温かくて優しい日常を送ることができるはずだ。琴子は素敵な人だから」
私は泣きながら、睡蓮の言葉を聞いていた。
睡蓮の提案を受け入れてしまえば、自分は楽になるのかもしれないと思った。長い間忘れていた虐めの記憶は、とても重くて、少し考えるだけで心臓を鷲掴みにされたような心地になる。
それに、睡蓮がいなくなって苦しんでいたのも、彼女との数え切れないほどの思い出があったからだ。そういうものを全部開かない箱に閉じ込めてしまえば、私は今よりもずっと、「幸せ」に浸ることができるのかもしれない。
…………でも。
私は荒くなってしまった呼吸を、少しずつだけれど普段の調子に戻していく。震えてしまってしょうがない身体を、ゆっくり何とか落ち着ける。
そうして私は座り込むのをやめて、立ち上がった。
驚いたように私を見つめている睡蓮を、私もまた見つめ返した。
「睡蓮。私は、貴女の提案を受け入れようとは思わない」
力強く、言い切る。
睡蓮が、目を見張ったのがわかった。
「…………何故だ。受け入れてしまえば、君は平穏に過ごすことができるはずなんだぞ」
「理由なんて、考えなくてもわかるでしょう……私は貴女のことを、ずっと覚えていたいんだよ!」
思わず、叫んでしまう。
溢れそうになった涙を、どうにか拭った。
「睡蓮と過ごした時間は、私の宝物なの。こんなどうしようもない世界で貴女に出会えたことは、私にとって本当に嬉しいことなの。それを忘れることで得られる幸せなんて、いらない。たとえ抱えることで苦しくなろうとも、私は抱え続けるよ!」
少しの間を置いて、それから、と私は言う。
「……虐めを受けた記憶も、私は抱え続ける」
そう告げるのには、確かな勇気が必要で。
それでも言葉にできたことに、少しだけだけれど自分を誇れるような気がした。
睡蓮は傷付いたような目をしながら、口を開いた。
「どうして」
「確かに、抱えることは苦しいよ。逃げ出したくなるし、思い出すだけで怖くなる。だから、あの頃の私なら、また忘れたいと思ったかもしれない。……でもね、」
私はそこまで言って、睡蓮の右手を両手で握る。
「今の私はね、そうは思わないの。だって、知ってしまったんだもの。睡蓮が私の過去を私以上に憎んでくれて、世界を変えようとまでしてくれたことを。貴女が私のことをそれだけ思ってくれたことや、助けようとしてくれたこと――その事実だけで、私はもう挫けずに、立ち向かっていくことができる。そうありたいと思う」
温かかったはずの睡蓮の手は、もう冷たくなってしまっていた。
「……ねえ、睡蓮。貴女が理想を抱いたのは、私のことを救おうとしてくれたからなんだよね?」
私の問いに、睡蓮はゆっくりと頷いた。
私は、微笑んだ。
「その理想は、結局は私の理想ではなくて、貴女の理想になってしまっている。私は、貴女が貴女の理想を叶えることでは救われない。私の理想はね……貴女が呪いではなくなって、どこか安らかな場所で幸せに過ごし続けること。それが叶えば、私は救われる。私のことを今も思ってくれるのなら、もう誰かを呪わないでほしいの」
私は言葉を紡ぐのを終わりにして、真っ直ぐに睡蓮を見つめる。
彼女の黒く澄んだ瞳に、少しずつ透明の色が溜まっていく。
「…………ずるいよ、君は」
睡蓮の頬に、一筋の涙が零れ落ちた。
「そんなことを言われたら、わたしはもう、そうするしかないじゃないか。だってわたしは……今も君のことが、好きなんだよ」
睡蓮の泣き顔は、不思議なくらいに綺麗だった。
「ちゃんと言ったこと、なかったな。メッセージも、取り消しちゃったし。わたしはね、君のことが好きなんだ。……好きという言葉では収まらないくらい、大好きで、愛しているんだ。ごめん、こんな化け物に好かれて気持ち悪いよね。本当にごめん」
睡蓮はそう言いながら、苦しそうに表情を歪めた。
嗚咽を漏らす彼女の身体を、私はぎゅっと抱きしめる。
「睡蓮は化け物なんかじゃない! 人間だよ、貴女は! すごく素敵な人だよ!」
「……優しいな、琴子は」
「睡蓮の方が、ずっと優しいよ。……私ね、誰にも恋したこととかなくて、正直に言うとやっぱりまだ恋とかわからないんだ。でもね、これだけは言える。貴女は、私の最愛の人だよ」
「そうか……ありがとう」
微かに震える睡蓮の背中を、私はそっとさすった。
長い時間が経って、やがて私たちの身体が離れる。
睡蓮は泣いていたのが嘘だったかのように、優しく笑っていた。
「わたし、琴子のことを好きになれて、愛することができて、よかった」
「…………睡蓮」
「本当は、孤独のまま永遠に呪いでいることが怖かった。一人でいることは苦しくて、寂しくて……何度も君の元に訪れてしまって、ごめん」
「謝らないでいいよ。私こそ、貴女のことを怖がってしまって、本当にごめんね」
「いいんだ。幽霊を恐ろしいと思えるのは、尊いことだから」
彼女はそう言って、そっと私に歩み寄る。
睡蓮の手が背中に回されて、彼女の吐息が私の耳をくすぐった。
ひんやりとした優しい香りが、より濃さを増す。
「ばいばい、琴子。幸せになってね」
そんな言葉が聞こえて、私の左耳にちくりと痛みが走った。
言葉を返そうと思った頃には、私の意識は霞んでしまって、そのまま消えていった。
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