37

 時間が経てばなくなるかと思っていた琴子への想いは、そうなるどころか日に日に増していった。

 琴子にそれを隠しながらわたしは狂いそうな日々を過ごして、


 ――そうして、が訪れる。


 ◆


 放課後、琴子とわたしは教室で話し込んでしまい、もう殆ど人がいなくなっていた。


「そろそろ帰る?」


 わたしの言葉に、琴子は困ったように視線を彷徨わせる。


「……どうかしたのか?」

「あ、ええと……その、お手洗いに行ってきてからでもいい?」

「うん、全然構わないけど」


 ありがとう、と言って琴子は急いだように走っていく。

 教室にはわたしだけになって、ぼんやりと窓の向こうに広がっている青色と橙色が混ざり合った空模様を見つめていた。

 そういえば、琴子がお手洗いに行くなんて珍しいな、と思った。彼女はわたしと一緒のとき、余りお手洗いに行かないのだ。まあ人それぞれか、と考えながら腕を伸ばす。


 違和感を覚えたのは、琴子が去ってから二十分ほどが経ってからだった。


 お腹を壊してしまったのだろうか? それにしても、遅いような気がする……わたしは心配になってきて、一応様子を見に行くことにした。

 昼間とは打って変わって人気のない廊下は、どこか静かな廃墟を連想させた。わたしは早歩きで、お手洗いへと向かう。


 ――何か、音が聞こえるような気がした。


 わたしはお手洗いの前で立ち止まる。この中から、咳をするような響きがしていた。わたしは足早に、その中へと入っていく。


 そこに広がっていた光景に、わたしは思わず息を呑んだ。


 洗面台に寄り掛かるようにして座り込んで、琴子が顔をぐしゃぐしゃにして泣き喚いていたのだ。嗚咽を漏らしながら、時折苦しそうに激しく咳き込む。


「琴子っ…………!」


 わたしはそんな叫びを漏らして、琴子へと駆け寄った。

 彼女はわたしに気付いたようで、何かに怯えるような辛そうな表情を浮かべたまま、少しだけ安堵したかのように淡く口元を緩めた。

 そうしている間にも彼女の瞳からは、大きな涙の粒がぼろぼろと零れ落ちている。琴子の身体は小刻みに震えていた。


「どうしたんだ、何かあったのか? わたしのいない間に、何が」

「ちが、うの、」


 琴子はゆっくりと言葉を紡ぐので精一杯のようだった。わたしは彼女の背中を丁寧にさすりながら、「まずは落ち着いて」と声を掛ける。

 やがて琴子の状態は、少しずつ平静へと近付いていった。

 わたしが貸したハンカチを目の辺りに当てながら、彼女は口を開く。


「いつも、見ないようにしてるのに、見ちゃった、の」

「見たって、何を?」


 琴子は何も言うことなく、代わりにとん、と自分の右頬を人差し指で示した。


 ――そこには、白い傷跡があった。


「……これが、どうかしたのか?」


 わたしの問いに、琴子は少しだけ唇を開けて、それを閉ざしてしまう。

 それから彼女は、苦しそうに微笑んだ。


「話したい、けれど……ここだと、無理そう」

「そうなのか。そうしたら取り敢えず、場所を移そう」


 わたしがそう提案すると、琴子は「うん」と頷いた。


 ◆


 琴子とわたしは、夕暮れの自然公園に訪れていた。

 口数の少ない琴子と共に、風で草木が揺られる音を聞きながら少しの間自然の中を歩いた。やがてわたしたちの前に、一つの寂れたベンチが姿を現す。


「……ここ、座るか?」


 わたしの問いに、琴子は「そうだね」と言ってそこに腰掛けた。わたしも彼女の隣に座る。

 沈黙を先に破ったのは、琴子だった。


「睡蓮は、私のどんな話を聞いても、私のことを嫌いになったりしない?」


 随分と弱気な質問だと思った。

 それと同時に――愚問だとも、感じた。


「わたしが君のことを嫌いになることは、ないよ」


 どんなに嫌いになりたくても、そうなることができなかったから。

 わたしの返答に、琴子は安心したように視線を落とした。


「…………よかった」


 太腿の上に置かれた彼女の手が、ぎゅっと握り締められたのがわかった。

 そうして、琴子はゆっくりと話し始める。


「私、ね……中学生のとき、虐められていたの」


 彼女の声は、酷く震えていた。


「クラスにね、中心的存在みたいな女の子がいたの。内向的な私にも話し掛けてくれるような、明るい人で。……でも、ある日から、私に対するその子の態度が百八十度変わったの。その子の好きな男の子が、私のことを好きだったみたいで。それだけの理由で、無視されたり悪口を言われたりするようになって、段々と他の友人も私から離れていって、やられることもエスカレートしていって……過ごしやすいと思っていた教室が一変して、地獄のような場所になっていって」


 琴子の瞳に、また涙が滲んでいく。


「二ヶ月くらい経って、私ももう限界で、その子と取っ組み合いの喧嘩になったの。この頬の傷は、そのときに付いちゃって、跡になっちゃったんだ。その喧嘩が切っ掛けで、虐め自体は終わったんだけれど……悪い評判みたいなものができちゃったみたいで、中学校ではそれからずっと、一人ぼっちだった」


 ぼたぼたと、透明な涙が落ちていく。


「忘れたいのに傷跡を見るたびに色々なことを思い出して、すごく苦しくなる。いつまでも、夢に見るの。眠ることでさえ怖いの。私、本当は、本当はね……」



 ……この世界から、いなくなってしまいたい。



「最低だよね。睡蓮とも出会えたのに、お母さんやお父さんもいるのに、大事にしたい夢もあるのに、心の奥底にあるのはそんな歪んだ願望なの。ねえ、睡蓮、苦しいよ……」


 琴子は泣きながら、縋るように言った。

 わたしは、思う。


 琴子はわたしとは程遠い人間だと思っていたが、実際には近しい人間だったのかもしれない。わたしが人を信じない理由と、彼女が人を信じようとする理由は、きっとどちらも深い絶望が原因だった。

 わたしたちはかつて世界に見放されたという点で、似たもの同士だったのだ。

 ……そしてわたしは、その事実に途方もない憤りを覚えた。



 何故なら、わたしは化け物ゆえに歪んだのに、琴子は人間なのに歪まされたからだ。



 琴子は自分が苦しい記憶を抱えながらも、他者の幸福を願い、愛することや信じることを尊いと考えることのできる人間だ。

 そのような優しい人が、壊される――そんなことが、あっていいはずがない。

 絶対悪として、捉えられなければならない。


 わたしは、今なお泣いている琴子を、ゆっくりと抱きしめた。

 彼女の嗚咽が、耳元で確かに大きさを増す。


「琴子、大丈夫だよ……もう、大丈夫だから」

「でも、ずっと……記憶が纏わり付いてくるの、全然、離れてくれないの」


 わたしは生まれて初めて、自分が化け物であることを幸せだと思った。

 少しばかり身体を離して、琴子の目を見つめる。

 それからわたしは、“その言葉”を唱えた。


 ◆



 ――わたしは力を使って、琴子を苦しめている記憶を消し去った。



 ◆


「そういえばさ、睡蓮は私みたいに夢とかあるの?」


 夏休み、砂浜の近くの階段に腰を下ろしている琴子から、そうやって尋ねられた。

 わたしたちの視界には、濃い青色の海がどこまでも広がっている。

 わたしは彼女の方を見て、微笑んだ。


「どうしたんだよ、急に」

「いや、貴女からそういう話を聞いたことがないなって思って。だから、気になって」

「ああ、なるほどな」


 わたしは頷いて、また海へと視線を戻した。


「……夢ってほどじゃないけど、理想みたいなものは、生まれた」

「へえ。それって、どんな理想なの?」


 琴子の問いに、わたしは口元を薄く歪める。


「……なあ、琴子。君はこの世界からいなくなってしまいたいと、そう思ったりする?」

「ええっ、どうしたの、急に」

「答えてくれ」


 少しの間、波の音だけが聞こえた。


「うーん……あんまり考えたことがなかったけれど、そういうことを思ったりはしないかな。だって大切な家族がいるし、夢もあるし、何より……貴女がいるもの」


 琴子はそう言って、海風に長い髪を揺らされながら、柔らかく微笑んだ。


「……そうか。それなら、よかったよ」

「うん。ええと、それで、睡蓮の理想は?」


 彼女にもう一度尋ねられて、私は頬杖をつきながら答える。


「教えないよ。今は」

「ええっ、私は貴女の質問に答えたのに!」

「ははは、どんまい」

「ちょ、ちょっと!」


 わたしは笑いながら、自分の心の中に芽生えている崇高な理想を、叶えずにはいられなくなるであろうそれを、再び見つめた。

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