36

 翌日、わたしはいつものように早い時間に教室へと到着しようとしていた。

 大体一番乗りなので、今日もそうだろうとぼんやり考えながらドアを開ける。

 そうしてわたしは、目を見開いた。


「あっ、おはよう、睡蓮!」


 既に教室には、琴子の姿があったのだ。


「……早くないか? 普段はもっとゆっくり来ている印象だけど」

「え、あ、その、」


 わたしの質問に、琴子は椅子に腰掛けながらあたふたとした様子になる。

 いつものように彼女の後ろの席に座ると、琴子は照れたようにわたしの方を見た。


「ほら、睡蓮、昨日メッセージで言ってたじゃない……私の小説、読んでくれたって。明日、感想を直接聞かせてくれるって」

「ああ、言ったな」


 頷いたわたしに、琴子は俯きながらぼそぼそと言う。


「その……だから、早く感想を聞きたくなっちゃって、早起きしたの」


 そんな言葉に、わたしは思わず吹き出してしまう。


「わ、笑わないでよ睡蓮! 恥ずかしくなるじゃない」

「はは、ごめんごめん」


 謝りながら、琴子のことを可愛いと考えてしまう自分に吐き気を覚えた。

 会話に集中しようと思う。


「それじゃ、感想を伝えるよ。準備はできてる?」

「う、ん……緊張するけれど、できているはず」

「それはよかった」


 わたしはそう告げてから、携帯を取り出す。メモ帳アプリを起動し、予め書いておいた好きなシーンや表現、素人なりの考察などを述べていった。

 自分の歪みを見せるのが今はまだ怖くて、愛や信頼の話には触れずにいた。


「…………そんな感じかな。とにかく、素敵な作品だったと思う」


 そうやって纏めると、琴子は強張っていた表情を少しずつ緩めて、笑う。


「こちらこそ、素敵な感想をどうもありがとう! 本当に、すごく嬉しい」

「そう言って頂けて何より」

「その、何というか、ちょっとだけ自信を貰えたかも」

「自信?」

「うん。自分の小説に対する自信、みたいな。……ええと、誰かに打ち明けるのは初めてなんだけれど、実は私、小説家になりたいと思っていて」


 少しは想定していたことだとは言え、いざ告げられるとやはり驚いた。


「そうなのか。それはすごい夢だな」

「えへへ、どうもありがとう」

「……ちなみに、どうしてなりたいんだ?」


 わたしの言葉に、琴子は何度か瞬きをしてから、「そうだな……」と話し出す。


「色々、理由はあるんだと思う。そもそも小説を書くのが好きだからとか、書店に自分の本が並ぶのに憧れがあるとか。でもやっぱり一番の理由は、」


 琴子はそこで一拍置いて、とても優しい微笑みを零した。



「自分が紡いだ物語で、顔も名前も知らない誰かが幸せになってくれたら。……それがとても、美しい未来に見えるからなんだと思う」



 見惚れてしまって、そして、

 寺嶋琴子という人間の考え方が、心の底から綺麗だと思った。


「…………睡蓮?」


 いや、綺麗という言葉は誤魔化しだ。

 わたしはずっと、気付かないふりをしていた。


 この人の振る舞いを可愛いと思ってしまうのも、

 この人の紡いだ世界に涙を流すほど心打たれるのも、

 この人の考え方がどうしようもなく尊く感じられるのも、



 ――全部、わたしがこの人を愛していることを証明しているというのに。



「どうかしたの、睡蓮」


 彼女にそう呼び掛けられて、わたしははっとなる。

 見れば、琴子は心配そうな表情を浮かべながら、わたしのことを覗き込むように見つめていた。

 その存在だけで、今のわたしには猛毒だった。


「……ごめん、早退する」

「え」

「すまない。今朝から何となく体調が悪かったんだ」


 わたしはその場しのぎの嘘を並べながら、鞄を肩に駆ける。琴子の姿を見るのが怖くて、逃げるように教室の出口へと向かった。


「その……保健室まで、送っていくよ!」


 後ろから聞こえてきた彼女の言葉に、わたしは「大丈夫」とだけ返した。


 ◆


 早歩きであてもなく道を進みながら、わたしは強く唇を噛んだ。

 血が滲めばいいと思った。そうすればわたしは、ほんの少しだけ人間に近付けるはずだから。


 痛みを感じている間にも、頭の中は琴子のことでいっぱいだった。

 消えてほしいと思うほどに、彼女との記憶が幾重にも花開く。落ち着いてほしいと考えるほどに、身体がどうしようもない熱を帯びていく。忘れたいと感じるほどに、彼女への想いが沸々と湧き上がる。


「…………嫌だ、」


 わたしは立ち止まって、震えてしまう身体を掻き抱いた。


「嫌だよ…………」


 溢れ出す彼女への気持ちが、憎くて堪らなかった。

 愛を恐れていたはずなのにそれを自分が他者へと抱いているのが不快で、いつかわたしも彼女を裏切ってしまうのではないかと怖くなって、同性へと劣情を抱いている自分が気持ち悪くて、そして何よりもわたしは、



 ――化け物だから。



 わたしは口角を歪めながら、そっとささやきを漏らす。

 数多の幽霊が、見えた。青白い光で身体の輪郭をつくりながら、この世界を漂っている。わたしはそんな光景を見ても少しも恐ろしいと思うことができない。むしろどこか美しく感じてしまう。

 普通の人間は幽霊を見ることはできない、普通の人間は幽霊の存在に恐怖を覚える、普通の人間は暇潰しに幽霊と話したりしない。だからわたしはやっぱり壊れている。ああ、早く腕を切りたい。切り刻みたい。わたしの中から真っ赤な液体を全部、全部なくしてしまいたい。そうすれば人間になれる。そうすれば、


 ……琴子を愛することも、許されるのではないだろうか?




 帰宅したわたしはぼろぼろになるまで腕を傷付けて、それからカッターナイフをずっと微笑みながら見つめていた。そうしていたら、朝が訪れていた。

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