35
「……小説を読んでほしい?」
「うん」
五月中旬の休日、琴子とわたしは幾らか名の知れたカフェにいた。
わたしはブラックコーヒーを飲みながら、目の前に座っている琴子を見る。彼女はどこか緊張した面持ちで、わたしの目を真っ直ぐに見据えていた。
「それは、もしかして……君が書いた小説、ということか?」
「そ、そうなの! あっ……ええと、忙しかったりそもそも興味がなかったりしたら、全然断ってくれていいんだけれど!」
琴子はどこか焦った様子で、そう言う。
彼女にはそういった癖があった。何と言えばいいのだろうか……他人にやたらと気を遣う傾向、みたいなものがある。
わたしはテーブルに、ことりとブラックコーヒーの入ったカップを置いた。
「特に忙しくないし、むしろ君の小説に興味があるよ」
「本当!?」
琴子が身を乗り出すので、わたしは少し驚いた。
彼女は自分の行動に無自覚だったらしく、「ご、ごめん!」と口にして椅子に姿勢よく座り直す。
「その……嬉しくて、つい。えへへ……」
彼女はそう告げながら、本当に嬉しそうに微笑んだ。
可愛いな、とふと思う。
自分が抱いたそんな感想に、わたしは微かに眉を顰めた。最近、琴子にこういうことを思う機会が増えた。どうしてしまったのだろうか、わたしは?
彼女のことは道具のようにしか思っていないというのに。
そんな、酷い人間だというのに。
わたしは自分の暗い考えを振り払うかのように、口を開く。
「喜んでもらえてよかったよ。ところで、どういう風に読めばいいんだ?」
「ええとね、睡蓮って自分のパソコン持ってたりする?」
「うん、あるけど」
「それならよかった! なかったらどうしようかな、印刷しようかなとか考えていたの。実はUSBメモリにファイルを入れてきてあるの、ほら、これ!」
琴子はそう言って、テーブルの上にUSBメモリを置く。
「……随分と用意がいいんだな」
わたしの素直な感想に、琴子は少しばかり顔を赤くして、そっと俯いた。
「その……私、自分の小説を誰かに見せるのって初めてで。普段なら、恥ずかしいなとか思うはずなんだけれど、というか今も思っているんだけれど、どうしてだろう……睡蓮には、読んでほしいっていう気持ちが勝っちゃったの」
言い終えて、琴子は「何言ってるんだろう私、恥ずかしい……」と手で顔を覆う。
気付けばわたしは、笑っていた。
「はは、そんなに思っていただけて嬉しいよ」
「も、もう。からかわないで」
ほのかに頬を膨らませながら、琴子はわたしの方を見る。
また、可愛いと思ってしまう。
そんな自分の気持ちを、わたしは何度も包丁で刺すかのように、ぐちゃぐちゃにした。
◆
家に帰ってきたわたしは、琴子から手渡されたUSBメモリをノートパソコンに差し込んだ。
このパソコンは母さんのお下がりで、貰ってから殆ど使っていなかったけど、こうして用途が生まれてよかったなと思う。
デスクトップに「小説(見せる用)」と書かれたフォルダが出てきて、わたしはそれをクリックした。その中には、『琥珀』という名前のファイルが入っている。これが題名だろうかと考えながら、わたしはそのファイルを開いた。
十ページほどの文書に、縦書きで文字が連なっていた。普段小説を読まないから憶測だが、恐らく短編なのだろう。
内容に特段期待している訳ではなかったが、彼女に伝えた言葉は嘘ではなく、寺嶋琴子という変わった人間が紡いだ物語に興味があった。
わたしは初めのページにカーソルを合わせると、少しばかり目を細めた。
読み終えるのに、そう長い時間は掛からなかった。
二度読んでほしいと頼まれた訳ではないのに、気付けばわたしはこの小説を読み返し始めていた。
主な登場人物は二人だけ。かつてこの地に生えていた伝説の樹から採れた琥珀を探している少年と、その琥珀を先祖代々から受け継ぎ守り続けている少女だ。
彼と彼女は偶然か必然か出会うこととなり、そして惹かれ合う。しかし、少女は少年が琥珀を手に入れるための旅をしていたと知ると、強く葛藤する。
好きな人に琥珀を渡してしまいたい、でもこれはこの家がずっと大事にしていたものだ……少女は苦しさに耐え切れなくなり、結局少年に全てを話してしまう。
すると少年は、こう言った――「それなら、新しい琥珀を探せばいいんだ。辛い思いをさせてしまってごめん。もう、悩まなくて大丈夫だよ」少年に抱きしめられ、少女は安堵したように笑って、泣いた。
二回目も読み終わったわたしは、ふと自分の視界が滲んでいることに気付いた。
「…………え、」
目の辺りに手をやれば、少しの温もりがある液体が付着する。
「何で」
自問自答すれば、すぐに答えが見つかった。
――今自分が目にした世界が、どうしようもなく優しくて、温かかったからだ。
わたしは人間という生き物を信じていない。愛というものはまやかしで、最後には全てばらばらに砕けると思っている。だってあの人もあの人もあの人もそうだった。皆、わたしのことを裏切った。
……でも、琴子はそう考えていないんだと思った。
物語の中で少年は少女を愛し、少女は少年を愛していた。お互いのことを、最後まで大切にし合っていた。愛というものに終わりなどなくて、ずっと永遠に煌めきを放つと考えている――そういう奴にしか描けない世界だった。
彼女は、人を信じているのだ。
そう気付いた瞬間に、衝動が抑え切れなくなる。わたしはノートパソコンを閉じると、いつものようにカッターナイフを持った。そして、普段よりも深く肌へと刃を沈めた。溢れてくる真っ赤な血を見て、わたしは少しだけ泣きながら、笑った。
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