34

 手首を切ると、わたしはどうしようもない快楽に包まれる。


 とろとろと流れていく自分の赤い血を見ながら、微睡む時間が堪らなく大好きだった。

 わたしはわたしの血を憎んでいる。わたしの中に循環しているこの液体が、わたしを人間ではなく化け物にしているから。

 全部「普通の血」と入れ替えてしまいたいと思う。そうすればわたしは人間になることができる。途方もなく甘美だ。


 そんな自分を最低だとも思っている。この血はもういない父さんとわたしが親子だったことを示してくれる証拠なのに。それでもわたしはこの血が大嫌いだ。

 仲が良かったはずの友達はわたしの力を知ると気持ち悪いと言って離れていった。

 信頼していたはずの先生はわたしの苦しみを最後まで信じてくれなかった。

 告白してきたクラスメイトは振られた後にわたしの噂を知るや嘲笑の目を向けてきた。

 だからわたしは自ずと他人が怖くなって、誰かと関わることを厭うようになり、話をする人と言えば実の母親くらいになってしまった。


 孤独でいることは本当に辛い。

 ましてや、仮初めだったかもしれないけど、人と接する幸福を知ってしまった後では。


 苦しくなってしまって、わたしはそれを忘れようとするようにまたカッターナイフで手首を切った。溢れ出す血を見ていたら、微笑みが浮かんでいた。

 こうすることで、ほんの少しかもしれないけど、人間に近付けているような気がするのだ。


 わたしはふと、カレンダーを見る。

 明日は高校の入学式のようだった。

 血が足りなくなっているからかぼうっとした意識の中で、わたしはそっと呟いた。


「…………これからも、一人で生きていこう」


 ◆


 そう心に決めていたはずなのに、気付けばわたしに一人だけ友達ができてしまう。


 ――寺嶋琴子だ。


 茶色を帯びた長髪を三つ編みにした、右頬の辺りにうっすらと傷のある少女。出席番号がわたしの一つ前で、やや小柄な背中が黒板を見るのに邪魔をしなくて幸運だと思っていた。

 その程度の感想しか持ち得ない関係性になると思っていたのに、わたしは車に轢かれた猫の霊と話しているところを彼女に目撃され、そして到底信じられないことを告げられる。


『すごく、優しいんだね』

『気持ち悪くなんてないよ。勿論、少しは怖かったけれど……でも、それよりずっと、素敵だなって思った』

『うん。私、お話を書くのが好きなんだ。だから今みたいな不思議なことに、憧れがあるの』


 心の底から、変な奴だと思った。

 だって普通の人間なら、気味が悪いとか不審だとかそういう感情を抱くはずだ。それを彼女はあろうことか優しいとか素敵とか憧れとか言い出した。しかもそれを曇りのない真っ直ぐな瞳で告げるのだ。だから本当に、変な奴だと思って、



 ……そしてどうしようもなく、救われてしまった。



 そんな出来事があった次の日から、わたしは少しずつ彼女と会話をするようになる。お互いを名前で呼び合うようになってから、わたしは彼女と友達となってしまったことを悟った。


 ――どうせまた、裏切られる。


 わたしの心は、そんな言葉をわたしに向けて勝手にささやくようになった。そのささやきを聞く度に、わたしは心臓が捻じ切れるような不快感に襲われる。そういうときは、こうやって反論した。


 ――裏切られるも何も、初めからこの人のことを信頼してはいない。

 ――ただ、利用しているだけだ。

 ――この人の考え方は救いになる。だから、側に置いておくことはメリットになる。


 そうやって頭の中で唱えると、不快感は薄れていく。


「睡蓮、どうかした?」


 わたしは俯くのをやめて、彼女の方を見る。

 彼女は優しい眼差しでわたしを見つめていて、そんな「友達」の存在はどこか麻薬のようだと思った。


「……いや、別に何でもないよ」

「そうなの? それならいいんだけれど」


 彼女はそっと頷くと、また大好きらしい甘いものの話を始める。

 わたしは相槌を打ちながら、自分の心の中が彼女に見えないことに深く安堵した。

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