33
彼女の細い身体は、裾の長い真っ白な衣服に包まれていた。その佇まいはどこか神秘的だったけれど、今ここにいる睡蓮は記憶の中の睡蓮と殆ど変わっていなかった。
烏の濡れ羽色の髪。
片方の目が少し隠れるような長い前髪。
形の整った切れ長の黒い瞳。
淡い色合いの唇。
雪を想わせるほどに白い肌。
そんな一つ一つの情報があの頃のままで、それは私に途方もない安堵をもたらした。
私は言葉を発することを忘れてしまっていて、だから先に口を開いたのは彼女の方だった。
「……どうして、ここまで来てしまったんだ?」
女性にしては低めで、そしてとても聞き心地のいい声。
響きまでもが、変わっていなかった。
けれど睡蓮の声は、少しだけ震えていた。彼女は険しい表情を浮かべながら、私のことをじっと見据えている。どこか哀しそうで、そして怒っているようでもあった。
質問に答えなければと思って、ゆっくりと言葉を紡ぎ始める。
「貴女に会いたかった。……そして、貴女にもう誰のことも呪い殺してほしくなかった」
言い切って、睡蓮と目を合わせる。
言葉だけでは伝えられない何かが、こうすることで伝わればいいと願った。
睡蓮は眉間に皺を寄せながら、そっと首を横に振る。
「そう言われても、わたしはやめる気なんてさらさらない。君は元いた世界に帰って、平穏な日々を過ごすといいよ」
「私だって、このまま帰る気なんてないよ」
「帰って」
「嫌だよ」
「帰れ」
「嫌だ」
私と睡蓮は言葉の応酬をやめて、じっと睨み合う。
やがて睡蓮が大きく溜め息をついて、「そもそも」と口にする。
「どうして琴子は、そうまでもわたしの邪魔をするんだ。わたしは理想があって、それを叶えなくてはならないんだよ。君だって、わたしの理想を応援してくれていただろう?」
「理想は綺麗かもしれないけれど、それに至るまでの手段を認められない。一人ぼっちでずっと人を憎んで、殺し続けるなんて、そんなの悲しすぎるよ。私は睡蓮に、そんな永遠を歩んでほしくない」
「悲しいのは琴子だろう? わたしは別に、自分がそうあることを悲しいとは思わない」
睡蓮にそう言われて、私は何て返したらいいかわからなくなってしまう。
やっぱりこの思いは、私のエゴなのだろうか……?
弱気になりかけたけれど、それではいけないと自分を奮い立たせる。何か反論しなければと思って、私は必死に自分の記憶を辿った。
――そうして、思い出す。
私はそっと睡蓮を見据える。
「でも、呪いであることは痛いんでしょう?」
睡蓮が、少しばかり目を見張った。
私は追随するかのように、再び口を開く。
「貴女は……亡くなってからも、様々な方法で私に言葉を伝えてくれたよね。私の部屋の天井に、『いたい』って書かれた汚れを浮かべたのは貴女でしょう? それが身体の痛みなのか、心の痛みなのかはわからないけれど、痛いことが苦しいことであるのは間違いない。私は、貴女に苦しみ続けてほしくないの」
そう言い終えると、少しの時間私と睡蓮の間を沈黙が満たした。
やがて、彼女が寂しげな面持ちを浮かべて言う。
「……自分の弱さに、こうして首を絞められることになるとは思っていなかったよ」
その言葉の響きには、後悔の感情が色濃く混ざり合っているような気がして。
それから睡蓮は、真っ直ぐに私を見た。
「けど、以前君にも伝えたと思う……琴子がそう言うことができるのは、君が今の君だからだ。昔の君だったら、きっとわたしの理想に賛同してくれていたはずだよ」
「昔の私……? どうだろう……でも私、今と昔でそんなに考え方が変わった感じはないよ。勿論、小学生の頃とかに比べたら少しは大人になったと思うけれど。だから、その仮定は間違っているんじゃないかな」
私の言葉に、睡蓮はどうしてか忌々しげな表情を浮かべる。
そうして、葛藤するように視線を少し彷徨わせてから、やがて何かを決めたように口を開いた。
「……琴子は、わたしがどうしてこの理想を追い求めるようになったかを、知りたいと思うか?」
その問いに、私は悩む間もなく頷いた。
「うん。聞かせてくれるのなら」
「そうか…………」
睡蓮は、きゅっと唇を噛む。
それから、私の頭の方へとそっと右手を伸ばした。
額に、彼女の手が触れる。
ひんやりとした香りが、私の鼻をくすぐる。
「それなら、見せてあげるよ。わたしがどうして、この崇高な理想を渇望するようになってしまったのか。その――全てを」
睡蓮は、口角を歪めて微笑んだ。
「……そうすれば君は、わかってくれるだろうから」
彼女がそう言い終えるのと同時に、私の頭の中に何かがどっと流れ込んでくる。
私の意識は、その激しい何かに呑まれていった。
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