32

 暗闇の中で、私はゆっくりとまぶたを開いた。

 明かりなど一つもない、本当に真っ暗な世界だった。そんな場所で自分の輪郭だけがやけにはっきりとしていて、それが不思議だった。


 私は少しの間ぼんやりとしてから、自分が何をしたのか、どうしてここにいるのかを鮮明に思い出した。


「…………うまく、いったのかな、」


 そう呟いてから、私はゆっくりと首を横に振る。まだだ。

 それに私は、睡蓮に会うことができていない。そんな状態で終わりになってしまうなんて、嫌だ――そう思いながら、私はこの暗い世界で歩き出す。


 この場所はとても寒かった。何となく、それが相応しいような気がした。死というものは低温という概念と結び付いているような気がする。それはどこか、とても寂しいような気もするのだけれど。


 歩いても歩いても、景色は変わらない。どこまで進んでも睡蓮の気配など感じられなくて、あるのはただ自分の存在だけだった。

 どこに行けばいいのだろうか……? そんな疑問を持ちながらも、立ち止まってしまうことが何故だか恐ろしくて、歩みを止める気にはならなかった。


 ――変化が生まれたのは、突然だった。



「貴女はどうして、この場所を訪れたの?」



 声がした。

 それは紛れもなく……よく聞き慣れた、でも少し響きの異なる自分の声だった。

 驚いて立ち止まった私の目の前には、が立っていた。

 肩に届かないくらいの長さをした髪。

 右頬の辺りにある傷の跡。

 柔らかな表情。

 いつも鏡の中で目にしている自分が、私を見つめていた。


「…………貴女は、」

「私は、貴女だよ。貴女の心の奥底にいる、本当の貴女。それよりも、答えて。どうして、ここに来てしまったの?」


 彼女はどこか糾弾するように、私に問うた。

 私は少しの間目を伏せて、それから素直な自分の思いを口にする。


「……睡蓮に会いに来たの」

「何故?」

「睡蓮に、もう誰のことも呪ってほしくないからだよ」

「それを睡蓮は望んでいるの?」


 彼女は目を細めながら、首を傾げる。

 すぐに返答できなかった私に、彼女はふふっと微笑んだ。


「ほら、ね。わかっているんでしょう? 睡蓮は貴女に会いたくなんてないのよ。だから、貴女はもうここで引き返した方がいい……」


 ――その微笑みで、私は気付いた。


 何度も、何度も思い出してきたから。

 私は彼女の肩をがっと掴む。驚いた表情までもが、私の推論を裏付けた。


「ねえ、貴女……嘘をついているでしょう?」

「え、嘘なんて……」

「誤魔化さなくていいよ。私には、わかるの」




 ……貴女は、睡蓮でしょう?




 私の言葉に、彼女は目を見張る。

 私はそっと、そんな彼女を抱きしめた。自分のように見える存在を抱擁するのは、何だか不思議な感覚だった。


「否定しないということは、正しいんだね」


 彼女は何も答えなかった。

 けれどそれは、私の問いが正解だとわかるのに充分な反応だった。

 嬉しくて、今まで堰き止められていたかのように、言葉がぼろぼろと溢れ出す。


「ねえ、睡蓮……私、貴女と話したいことが沢山あるの。本当に、沢山あるんだよ。だから、これからはずっと、二人で色々なことを喋ろう。気が遠くなるくらいに、そうしていよう」


 彼女を抱きしめる腕に、より強い力を込める。

 自分が起こそうとしている未来がやっぱり怖くて、私はそうやって安心しようとした。

 目には勝手に涙が浮かんでいた。


「私の血も、肉も、心も――全て貴女にあげる。ずっと側にいる。……だから、」


 ――呪いとなったひとを救うには、そのひとが満足するだけの肉体を差し出す必要があるという。

 だから私は、睡蓮に私の全てを差し出そうと思う。




「もう、終わりにしよう」




 そう告げた瞬間、世界が晴れていった。






 何度も夢の中で目にした湖が、視界に広がっていた。

 どこまでも続く恐ろしいほどに澄んだ空も、眠るように浮かんでいる大小様々な円形の葉も、様々な色合いを浮かべた美しい睡蓮の花々も――そんな幻想的な光景の全てが、に気付いた瞬間にどうでもよくなってしまう。


 ずっと、ずっと求めてきた。

 貴女にもう一度、会いたかった。

 心の奥底から、そうやって思った。





 ――睡蓮が、立っていた。

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