31
私は小走りになりながら、家までの道を進んでいた。
胸の辺りに黒い本を抱えながら、息を切らして駆ける。ようやくだ、そう思った。私はようやく、睡蓮の元に行くことができる。
――後悔はないの?
そう、もう一人の自分に問われた気がした。
だから私は優しく微笑んで、世界へ響かせるかのように呟いた。
「勿論、後悔なんてないよ」
道端の草木が風で揺れて、それがどこか返答のように思えた。
……後悔なんてないはずなのに、これから自分がしようとしていることを考えると怖くて、震えが止まらなくなりそうで、ぼろぼろと涙を零してしまいそうだった。
それなのに無性に嬉しくて、膨らんだ期待で胸がいっぱいで、今なら何だってできるんじゃないだろうかと思ったりもした。相反する二つの感情が心の中で暴れていて、どうにかなってしまいそうだった。
ふと、目の前に男の人が立っていることに気付いた。
長身痩躯でスーツを着ていて、目の焦点が合っていない。私は立ち止まって彼のことを見上げた。避けなければと私が思うのと、男の人が言葉を発するのはほぼ同じタイミングだった。
「かえしなさい」
彼は確かに、そう言った。何を……? 疑問に思った私へと男の人の手が伸びてくる。彼の青白い指が黒い本に触れそうになって、私の足はようやく動いた。
先程までよりも速度を上げて走る。後ろを振り返れば、あの男の人も、腰の曲がったおばあさんも、よそいきのワンピースを着た女の人も、小さな子どもも、作業着を着たおじさんも、皆目の焦点がちゃんと合っていなくて、私のことを追い掛けてくる。
「かえしなさい」「かえしなさい」「かえしなさい」「かえしなさい」「かえしなさい」
「かえしなさい」「かえしなさい」「かえしなさい」「かえしなさい」「かえしなさい」
「かえしなさい」「かえしなさい」「かえしなさい」「かえしなさい」「かえしなさい」
「かえしなさい」「かえしなさい」「かえしなさい」「かえしなさい」「かえしなさい」
言葉が重なり合って、不気味なオーケストラのようだった。私はぜえぜえと息を切らしながら、彼等に――いや、睡蓮に聞かせるかのように叫んだ。
「嫌だ! ようやく見つけたの……私は貴女が何て言おうと、貴女に会いに行くの!」
たとえそれが、苦しくても、辛くても、心がばらばらになってしまいそうでも、
最愛の人に会いに行くことに、聞き心地のいい理由なんて必要だろうか?
ようやく、自分の家が見えてくる。
私は鞄から鍵を取り出して、扉をがっと開いた。閉めようとした瞬間、幾つもの腕が隙間に捩じ込まれる。闇雲に閉じようとしたら挟まって、いたい……いたい……そんな言葉が聞こえてきてうっとなった。
でもここで弱気になってしまっては、黒い本を奪われてしまう。私は良心を捨てて、何度も何度も扉を閉めようとする。流石に痛みに耐え切れなくなったのか、腕は少しずつ後退していった。長い時間の攻防の末に、私は扉の鍵を閉めた。
どんどん、どんどんと叩かれる扉の音を聞きながら、私は自分の部屋へと急ぐ。自分の筆箱から黒のサインペンを取り出して、黒い本に書かれている模様を床へと見様見真似で書いていく。
窓を叩かれた気がして、見ればそこにはべたりと何人もの人間が張り付いていた。ひっと悲鳴を上げて、早くしなければならないと思いながら私はさらに模様を仕上げていく。家中に大きな音が響いている気がする。
模様を書き上げた私はサインペンを投げ捨てて、机の上に置いてあったカッターナイフを手に取った。私は黒い本に書かれているまじないの言葉を、なぞるように口にしていく。最後まで言い終えて、私はそのカッターナイフを自分の身体へと突き刺した。
このカッターナイフに付着しているのは、紛れもない睡蓮の血だ。
だからきっと、戸田家の血を継がない私でも、こうやって混ぜ合わせてしまえば……
睡蓮の元に……行けるは、ず……で……
遠ざかっていく意識の中で、私はいつものように睡蓮の微笑みを思い出していた。
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