29

 布団を被りながら、私は眠りに落ちようとしている。

 教室を探した後で、私は校内の怪しそうな場所を手当たり次第に見て回ったが、結局どこにも黒い本はなかった。失意の気持ちが、心の中に充満している。


 ――明日こそは、見つけてみせる……


 そう考えながら、私は両手で睡蓮のカッターナイフを握りしめた。睡蓮のお母さんから許可を貰って譲り受けたものだ。これが近くにあると、何故か私は安堵する。

 それはやはり、こちら側の世界に睡蓮がいるような心地に陥らせてくれるからだろう。甘美な刃物だと思った。


 ようやく、うとうととしてきた頃。


 どさり、と音がした。私の眠気は途切れて、思わず目を見張る。何の音だったのだろう……?

 物が床に落ちたような音だったが、明かりを点けないと真相はわからなさそうだった。温かな布団を出るのが面倒で、私は気にせずに寝てしまおうと思う。

 そのとき、だった。


 ――どさりどさりどさり


 先程とは打って変わって、大きな音が部屋に響いた。まるで、沢山の物が一気に落下したかのような……放課後に見た窓の外の光景をふっと思い出して、手が震えた。

 音はもうしなかったけれど、確かめずには最早眠れないような心地がして、私は意を決して部屋の照明を点ける。


 そこに広がっていたのは確かに私の部屋で、けれど床には本棚に入れてあった小説が大量に散乱していた。どうやら、持っている本の半分ほどが落下してしまったらしい。


 それは明らかに、自然発生的に起こる現象ではないように思えた。私は少しの間目を伏せてから、とにかく片付けようと思って一つの小説に手を伸ばす。

 その本は落ちた反動でか開いてしまっていて、ページが晒されていた。何の小説だっただろうかと思って、持ち上げながらその見開きに目をやる。




           関わるな




 ……そんな一文が、右のページと左のページの真ん中に記載されている。


 私は震えてしまう手で、ぱらぱらと小説をめくってゆく。どのページにも、“関わるな”という言葉だけが静かに綴られている。私は救いを求めるかのように他の本へと手を伸ばした。

 けれどその本にも、三冊目の本にも、四冊目の本にも、五冊目の本にも、“関わるな”としか書かれていない。動悸が段々と可笑しくなっていく。

 瞬きをしたら、散らばっている本の表紙が全て赤く染まっていた。私は小さな悲鳴をあげる。意識が勝手に遠ざかっていく、最後に私は彼女の声を聞いた、



「…………関わるな」



 そうやって、ささやかれたかのように思った。


 ◇


 目を覚ますと、朝になっていた。

 小鳥の囀りが聞こえてくる中で、私は自分が数多の本に囲まれるようにして眠っていたことを知った。小説はもう真っ赤ではなくなっていた。

 私は恐る恐る、一つの本を手に取る。ゆっくりとページを開くと、そこには見覚えのある物語が描かれていて、微かな安堵の息を漏らした。


 昨晩のこと、そして放課後に見た窓の外の光景を思い出す。

 もう、火を見るよりも明らかだった。


 ――睡蓮は、私が彼女の元へ行こうとするのを止めようとしている。


 それはやっぱり、彼女の理想を遂行するために、私のような異議を唱える存在が邪魔になるからだろう。

 そして……もしかすると、彼女と再び会うために恐らく私は危険な手段を取らなくてはならなくて、そのことを憂いているのかもしれない。

 私と会ってしまえば、彼女自身の決意が揺らいでしまう可能性があって、それに怯えているのかもしれない。


 私は、自分の口元が緩んでいるのに気付く。


 愚かかもしれなかった。睡蓮の力によってこれだけ恐怖を覚えているのにも関わらず、それでも私はまだ、彼女からの愛が感じられてしまった瞬間に、喜んでいるのだ。

 私の中にある愛は無垢だと、真っ直ぐだと、かつて睡蓮は言ってくれた。今の私はそれを心の底から否定することができる。私の愛は歪だ、どろどろだ。


『……わたしの愛は、少しも綺麗なものじゃないから。君の小説とは正反対だよ、真っ黒なの。とても、汚いよ』


「お揃い、だね」


 睡蓮の言葉を思い出しながら、私はそっと呟いた。

 やはり私は彼女の元へ行かなくてはならないと思う。何度も抱いたことのあるその気持ちは、少しばかり身勝手なものへと変貌していた。


 私は自分が手繰り寄せることのできる睡蓮との記憶を、執着にも似た思いで辿った。幾度となく共に歩いた高校の帰り道、ケーキや飲み物に彩られたカフェ、何気ない会話を交わした教室、初めてのキス、白く煌めく満月――


 そんな数多の記憶が、一瞬途切れて。

 そのとき私はいつものように、砂浜に波が打ち寄せるかのように……



 初夏の頃、彼女と二人で訪れた自然公園。

 夕暮れの中、彼女に抱きしめられながら流した涙と、温かな体温に冷たい香り――



 それは私にとって忘れられない情景で、けれど細かなところは幾つも忘れてしまっていた、不思議な記憶だった。どうして自分が泣いていたのかも、自分の言葉や睡蓮の言葉も、所々が朧げなのだ。

 私は、思う。


 ――あの自然公園に、黒い本が隠されているのではないだろうか。


 確証なんてなかった。けれど私は、どうしてか確信に近い気持ちを抱いていた。それはきっと、私から離れようとしない思い出は、かつての睡蓮からも離れようとしないのではないかと思ってしまったからかもしれない。


 私は立ち上がって、散乱している本を一冊ずつ本棚へと戻してゆく。

 そして、それが終わったら、あの場所に向かおうと決めた。

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