28
睡蓮の部屋は、かつて訪れたときと殆ど何も変わっていないように見えた。
それもそのはずかと思う。睡蓮の遺品の整理をしていないことを、睡蓮のお母さんはこの場所に入る前に教えてくれた。だから私は、あの“黒い本”を探しに来たのだ。
心の準備はできていたはずなのに、私の息は少しずつ荒くなっていく。
――ここは、睡蓮が首を吊った部屋だから。
想像したくなんてないのに、私の頭は勝手にその不確かな光景を再生する。振り払おうと思って強く唇を噛んだ。それでも止まってくれない、終わってくれない、なくなってくれない。
私はここから逃げ出してしまいたくなった。そんな臆病な自分が嫌で、私は手のひらに爪を食い込ませながら呟いた。
「そうしてしまったら、私はずっと、睡蓮に、会えない」
お前はそれでいいのか?
……それでいい訳なんて、あるはずがない。
私は目の前に見えない自分が立っているかのように、睨み付ける。
そっと一歩を踏み出した。それから、箪笥や勉強机の引き出しなど、黒い本が隠されていそうな場所を手当たり次第に探していく。どこかに、きっとどこかにあるはずだから……
随分と長い時間、そうしていた。
それなのに、目的の本が見つかる気配は一向に訪れなかった。睡蓮の部屋は整頓されているから、そもそも探す場所は少ないはずなのに、どこにもないのだった。
「…………何で、」
やるせない気持ちでいっぱいになってしまう。大きく息をついてから、諦めきれずにもう一度部屋をぐるりと見渡した。
――睡蓮は、黒い本を捨ててしまったのだろうか?
その可能性が頭をよぎり、背筋が冷える。もしもそうだとしたら、睡蓮に近付くことのできる大きな手掛かりが消えてしまったことになる。
…………でも。
睡蓮のお母さんが言っていたじゃないか。あの本は睡蓮が、睡蓮のお父さんから譲り受けたものだ。形見のような存在だったはずだ。それならば、簡単に捨ててしまうとは考えにくいのではないだろうか。
そこまで思って、私はふと、睡蓮が本について言っていたことを思い出す。
『……別に、大した本じゃないよ』
『……こんな本、琴子は読まなくていいよ。楽しいものではないから』
あのときは、その言葉の表層にとらわれてしまっていた。けれど、今思えば……睡蓮は、私に悟られたくなかったのかもしれない。自分に宿る力を使って、呪いとなろうとしていることを。
これらの情報から推測するに――黒い本は、恐らくどこかに隠されているはずだ。
「見つけてみせる……」
気付けば私は、俯きながらそうやって呟いていた。
もう一度だけこの部屋を隅々まで探そうと思って、勉強机の方に歩いていく。
不意に、暗い赤色の筆箱が目に入った。
心臓が脈打つ。
“あれ”はまだ、その中にあるのだろうか?
一瞬、躊躇った。かつて私が秘密を暴いてしまったときの、睡蓮の哀しそうな表情を思い出して。
けれど私はとあることに気付いて、それと同時に躊躇などすぐに頭の彼方に飛んでいてしまって、肉の奥に隠されている内臓を食おうとする獣のように、筆箱を、漁った。案外呆気なくそれは見つかった。
カッターナイフの銀色は今日も鈍く煌めいていた。そしてそこには、ちゃんと、残されていた。
「あ……あはは、はは……」
口から無意識のうちに笑いが零れる、視界が滲んでいく、しょうがないだろう、だってこの世界に形として残されている睡蓮は骨だけだと絶望していたから、貴女の血がこびりついたこのカッターナイフが今の私には愛おしくて、愛おしくて堪らなくて。
私はぼたぼたと涙を落としながら、小さな刃物を……彼女が確かに存在していた証を、暫くの間抱きしめていた。
◇
結局睡蓮の家からは、黒い本は見つからなくて。
私は次の候補として、通っている高校を探すことにした。
放課後、私は一人だけの教室で探し物をする。クラスメイトの机を勝手に漁るのは気が引けたけれど、最早そんなことを言っている場合ではなかった。
灯台下暗しということわざがあるように、意外にも近しい場所に目的のものがあるかもしれないのだ。
けれど最後の四十人目の机の中にも、本はなかった。私は落胆しながら息を吐く。でも、仮にクラスメイトの持ち物に紛れ込ませたとしたら、その人が持ち主を探すこととなり、私に見つかってしまうリスクも増えるような気がする。
だとすれば睡蓮は黒い本を、何の脈絡もない場所に隠してしまったのだろうか?
もしもそうだとしたら、それを見つけるのはどれほど大変だろうか。
私の心を絶望が浸していく。早く、早く睡蓮に会わなくてはならないのに。そうしなければ、また睡蓮が誰かを呪い殺してしまうのに……
「……弱気になったら、だめだ」
私は自分に言い聞かせるように、呟いた。
大丈夫だ。だって睡蓮は私の最愛の友人なのだ。彼女の思考が選んだ隠し場所を、私も同じように導き出すことができればいい。絶対に、できる。
私は俯くのをやめて、顔を上げる。窓の向こうに広がる夕景は余りにも赤かった。何かが壊れてしまったかのような、赤さだ……
私は意味もなく、そんな赤い世界を食い入るように見つめていた。
――三つの顔と目が合った
一瞬、だった。余りにも唐突で、そして短い時間だった。私は小さな悲鳴を漏らして、何もすることができずに少しの間立ち尽くしていた。
落ちていく姿が、見えたのだ。
また、誰かが屋上から飛び降りた? その可能性に思い至って、私は表情を歪める。でも、三つの顔には見覚えがある気がした。すぐに答えは導かれた、……佐山さんと村瀬さんと篠倉さんに、似ていたのだ。
確かめなくてはならない気がした。
少しずつ、窓の方へと近付いていく。あの日見てしまった三人の亡骸を思い出して、微かな吐き気がした。心臓の隠されている胸に左手を添えながら、右手で窓の鍵を開け、ゆっくりと開いていく。あのときのように祈ることはしなかった、……無駄だったから。
地面を見た、
そこにはただ地面があるだけだった。
いっときの安堵に包まれる私は、混ざり合う秋と冬の匂いの中に、確かな彼女の香りを感じた。それはいつものように、冷たかった。
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