三章 二人の記憶

27

 ――睡蓮は、不思議な力を持っている。


 雨が降っていた春の日、死んでしまった猫の幽霊と話していたこと。何人もの子どもが亡くなった交通事故が起こった交差点を、その事実を知らないのに恐ろしく感じたこと。

 そして……命を絶った後も、私の元へ訪れたり、敵対している人たちを呪ったりしたこと。


 普通の人間ならば持っていない、そんな力が彼女には宿っている。


 睡蓮に再会するためには、彼女の力に関してもっと深く知ることが重要なのだろうと思った。

 何故なら、睡蓮が今も私に近付くことができているのならば、その逆もきっと不可能ではないはずで、そしてそのためには睡蓮の力をより理解しなければならないからだ。


 睡蓮の力について知っていそうな人物については、心当たりがあった。


 ――睡蓮のお母さんだ。


 私は睡蓮と仲が良かったとはいえ、結局のところ半年より少し長いくらいの付き合いだった。それに対して睡蓮のお母さんは、睡蓮が生まれた頃からずっと彼女のことを見守り続けた存在のはずだ。

 だとすれば、何か重要なことを教えてくれるのではないだろうか?


 長い思考の末にその結論を導いた私は、もう一度睡蓮の家へ赴くことを決めた。


 ◇


 あのときのように、睡蓮を想わせる家だと思った。

 屋根は月が昇る夜空のように黒くて、壁は焼かれた後の骨のように白かった。インターホンの前で立ち尽くす私の裾の長いワンピースを、強い風がはたはたと揺らしていた。


 深く、息を吸う。

 それから人差し指で、そっとインターホンを鳴らした。

 応答があるまでの間、私は広がっている曇り空をぼんやりと見つめていた。


『……琴子ちゃん?』


 やがて聞こえてきたのは、やや高めで温かい声の響き。機械を通してだからか微かに異なる音だったけれど、葬式のときに話した睡蓮のお母さんで間違いないと思った。

 緊張しながら、口を開く。


「はい、そうです……すみません、突然。その、お聞きしたいことがあって」

『聞きたいことって、わたしに?』

「はい。戸田さんに、お聞きしたいんです」


 私は、はっきりと言い切る。


 少しの沈黙があって、『……外、寒いでしょう。取り敢えず、上がったらどう?』という優しい言葉が聞こえてきた。




 以前睡蓮の家を訪れたときは彼女の部屋にしか入らなかったから、リビングに案内されるのは初めてだった。

 焦げ茶色のフローリングに、テーブル、椅子、ソファ、テレビといった家具や家電が配置されている。全体的に落ち着いた色合いで統一されており、所々に置かれた観葉植物が柔らかな彩りを添えていた。


 私は椅子に座りながら、キッチンでお茶を淹れてくれている睡蓮のお母さんの後ろ姿を何も言わずに見守っていた。

 少しして、彼女はテーブルに二つの白いカップを置いてくれる。淡い黄緑色をした液面からは、温かそうな湯気が立ち上っていた。


「家に緑茶しかなかったんだけど、琴子ちゃんは好きかしら?」

「はい、好きです。お茶はこだわりなく何でも飲みます」


 私は微笑んで、カップに口を付ける。ほのかな苦みが口内に広がって、ああ、何だか安心する味だと思った。


「それはよかったわ。……それで、わたしに聞きたいことって何かしら?」


 睡蓮のお母さんはそっと首を傾げる。ほのかに揺れた長髪の黒色は、睡蓮が持っていたウルフカットの色合いととてもよく似ていた。

 私は太腿に乗せた手をぎゅっと握りしめて、話し始める。


「その……聞きたいことは、睡蓮に関することなんです」


“睡蓮”という言葉を聞いたとき、睡蓮のお母さんが表情にほのかな悲しみを滲ませたのがわかった。その事実に、胸がきゅっと痛くなる。

 彼女は、寂しげに微笑んだ。


「まあ、そうよね。それで、あの子のことで何か気になることがあったの?」

「はい。戸田さんは、睡蓮に……不思議な力、みたいなものがあったことをご存知ですか?」

「ああ、そのこと」


 一拍置いて、知っているわよ、と睡蓮のお母さんは続ける。

 私はちょっとだけ安堵しながら、頷いた。


「よかったです。その……私、事情があって、睡蓮の力について詳しく知りたいんです。私が知っていることは、本当に少なくて……だから、どうして彼女にそんな力が宿っているのかとか、その力を使うには何が必要なのかとか、そういうことを知りたくて。勿論、戸田さんがご存知だったらなんですけれど」


 たどたどしい喋り方になってしまいながら、そうやって尋ねる。

 どうか、手掛かりが得られますように――そう祈りながら、私は睡蓮のお母さんの言葉を待った。


「…………一つだけ、聞かせてほしいの」


 やがて彼女はそう言って、真っ直ぐに私を見据えた。


「あなたがそれを知りたいのは、どういう理由からなのかしら。詳しく話すことができないのなら、抽象的でもいい……最初に、それだけ教えてほしいわ」


 睡蓮のお母さんの瞳は、とても真剣で……だから私は、その問いに偽りなく応えなければいけないと思う。

 考える時間は案外必要なくて、心からぽろっと零れ落ちたかのように、私は告げた。



「最愛の友人に、これ以上苦しい思いをしてほしくないからです」



 ……やっぱり私の行動原理は、ただそれだけなのだ。

 睡蓮のお母さんは淡く目を見張って、そうして少しずつ、表情を微笑みへと移ろわせていった。


「そうなのね。睡蓮から聞いていた通り、あなたは本当に優しい子なのね」

「……私の優しさは、人並みですよ。睡蓮の方がずっと、ずっと優しいです」

「そうやって謙遜するところも、きっとあなたの美徳なんだと思うわ」

「……ありがとうございます」


 私は頭を下げる。褒められることは少しだけむず痒くて、それでいて嬉しかった。

 睡蓮のお母さんは、カップに入った緑茶を一口飲むと、ゆっくりと話し始める。


「あの子の力はね、遺伝のようなものなのよ」

「遺伝……?」

「そう。わたしの夫……つまり睡蓮のお父さんの家系では、時折、生まれつきそういう力を持った人が現れるの。夫や睡蓮は、そのうちの一人なのよ」


 私は驚きながら、そっと相槌を打つ。

 すなわち、あのような力を持っている存在は、睡蓮だけではなかったのだ。

 睡蓮のお母さんは寂しそうに眉を顰めながら、テーブルの上で両手を組み合わせた。


「夫が既に亡くなっているって、睡蓮のお葬式の日に言ったでしょう?」

「……はい」

「これは伝えていなかったと思うんだけど……夫もね、自分から死を選んでしまったのよ」


 私は一瞬、呼吸するのを忘れてしまう。


「彼はね、出会ったときからずっと、ずっと苦しんでいたの。……優しすぎたんだと思う。他者の痛みに共感しすぎるところがあったから、本当は生きていたかった幽霊の悲しみを自分のことのように憂いたし、超常的な力を持っていることに責任感を覚えてしまったから、憎しみが連鎖する世界に何もしてあげられない自分を愚かだと信じて疑わなかった。そういう力を持つのに、ある意味で一番不適切な人だった」


 睡蓮のお母さんは、微笑みながらそう言った。

 彼女の眼差しは、どうしようもなく温かくて……ああ、この人はきっと、「彼」のことが痛いくらいに大切だったのだろうと、そう思った。


「夫が死んでしまったのは、睡蓮がまだ十歳だった頃だったわ。遺書には沢山、謝罪の言葉が綴られていた。妻と子どもを残して死んだ彼は、世間的に見れば酷い人なのかもしれないけど、わたしはそうは思わない。あの人はただ、この世界で生きていくのには余りに向いていないほど、愚直なまでに優しかっただけ」


 ほのかに震えた声で告げてから、目尻に滲んだ涙を拭って、「……ごめんなさいね。ここからが、あなたの知りたがっている話だと思うわ」と彼女は言った。


「ある日ね、夫の部屋で遺品の整理をしていたの。そうしたら、引き出しから本が出てきたの。表紙も背表紙も裏表紙も、全てが真っ黒で……白い付箋が、貼られていた。その付箋には、『睡蓮に渡してください』とだけ書かれていたの」


 真っ黒な本――そう聞いて、私は思い出す。

 あの日、睡蓮が電車で黒い本をじっと読んでいた、その光景を。


「中を確認しようかと思ったけど、結局そうせずに睡蓮に渡したわ。彼が睡蓮に渡してほしいと言うのなら、最初にそれを読むのは睡蓮でなければいけない気がしたの。後で、睡蓮に尋ねてみたのよ……あの本には、どんなことが書いてあったの? って。睡蓮からは、こんな言葉が返ってきたわ……“どうしたら力がちゃんと使えるか、教えてくれるんだ”って」


 睡蓮のお母さんは、そっと目を伏せる。


「夫は余り、わたしに力のことを話したがらなかったの。彼は、当事者だけが詳細な知識を持っていればいいと考えていたんだと思う。彼にとってはそれが最善だったんでしょうね……だから、わたしはこれくらいのことしか知らなくて、あなたのようにこれからさらに何かを知ろうとすることもしないわ」


 そうして口を閉じた彼女は、緑茶をゆっくりと飲んだ。

 少しの静寂の後で、私は問う。


「……戸田さんは、私が答えを探し続けることは、間違っていると思いますか?」


 睡蓮のお母さんは、ふふっと笑った。


「本気でそう思っていたら、あなたには何も語らないわよ」

「けれど、私のやろうとしていることは……戸田さんの旦那さんの思いとは、反しています」

「まあ、それはそうかもしれないわね」


 でも、と彼女は柔らかな表情を浮かべる。


「わたしが愛しているのは彼だけど、あなたが愛しているのはその友人なんでしょう? だったらあなたは、あなたの大切な人を救いたいと思う気持ちを重視すればいいのよ」


 その言葉に、私は思わず泣き出しそうになってしまう。

 その哀情を何とか振り払って、私は睡蓮のお母さんを真っ直ぐに見つめた。


「……本当に、ありがとうございます」

「ええ、どういたしまして」


 彼女は頬杖をつくと、どこか懐かしそうに笑った。

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