26

 オレンジ色の帰り道を一人で歩きながら、私はゆっくりと息を吸って、吐いてを繰り返していた。


 睡蓮、佐山さん、村瀬さん、篠倉さん――そんな四人が教室からいなくなっても、日々は当たり前のように続いている。それは一見すると平穏で、けれど私はこれが終わりではないことを悟っていた。


 何故なら睡蓮の理想は、国府田さんへの虐めを行っていた三人が死ぬことではなくて、今も世界のどこかで行われている数多の虐めを全て終わらせることだからだ。


 友人がいない私の耳にも、こんな噂が届いていた。“三年生のクラスでも虐めがあったが、それを行っていた先輩の様子がここ数日可笑しくなっている”――クラスメイトがそう話していたのを聞いたとき、私は確信を覚えた。……


 この一週間、ずっと考えていた。


 もしかしたら睡蓮の呪いによって、世界はより良くなるのかもしれなかった。虐めに苦しんでいた中学生の少女が自殺を選んでしまったニュース、虐められている高校生の少年がSNSに綴っている悲しい言葉の数々、会社の上司による虐めで鬱病を患ってしまった青年の慟哭のようなブログ――そういうものがインターネットには溢れていて、私は辛い気持ちになりながらも、それらを必死に見据えようとした。


 この世から虐めがなくなれば、苦しい思いをする人が随分と減るだろう。それはきっととても美しい世界で、多くの人が一度は夢見たことがあるのかもしれなかった。そんな素晴らしくて尊い未来を、睡蓮はつくり出そうとしているのだ。


 …………でも。

 そうだとしても、私は――



 ――睡蓮に、最愛の友人に……誰かを殺し続ける呪いになんて、なってほしくなかった。



 あの日踊り場で睡蓮に、“どうして虐めを行った人を殺してはいけないのか”と尋ねられたとき。私は、死んでしまった人は、後悔する時間もやり直す機会も全て失われてしまうからだと、そう伝えた。


 勿論今もそう思っているし、それを覆す気はさらさらない。

 けれど、長い間悩み続けたことで、私は自分の本当の思いに気付いた。


 自分の行いが原因で誰かを傷付けることを、優しい人ほど恐れていると思う。私が髪を強引に切られたときも、私にキスをしてしまったときも、私が佐山さんに嫌なことを言われたときも、睡蓮は深く苦しんでいた。


 ……睡蓮は、優しい人なのだ。


 そんな睡蓮が永遠に誰かを傷付けるだけの存在になってしまうことが、私にはどうしようもなく恐ろしかった。それは、睡蓮を酷く苦しめることに繋がるだろうから。嫌だった。嫌で嫌で、しょうがなかった。


 睡蓮に、人を殺してほしくない。


 ただそれだけの、単純で身勝手な私の願い。

 そういう理由が一番にあったから、私は立ち止まることをやめて前に進みたかった。


 ……けれど、そうすることが本当に正しいのかわからなくて。

 弱い私は誰かの後押しが欲しくて、そうして国府田さんに頼ってしまった。

 彼女の言葉を、思い出す。



『……死なないでいいのだと思います』



 国府田さんは確かに、そう言っていた。

 安堵する。虐めを受けていた彼女が、それでも虐めをしてしまった人間のことを、“死なないでいい”と言ってくれたことに。


 きっと私たちは、誰のことも殺さなくていいし、誰にも殺されなくていいはずなのだ。


 私はふと立ち止まって、視線を上げる。夕陽は段々と沈んでいって、藍色の空に夕月が寂しげに浮かんでいた。

 その情景を見ていると、睡蓮がいなくなってしまった日に話したことを思い出した。



『月の在り方も、そう悪くはないんじゃないかと』

『自分は煌めくことができなくても、他の煌めきを美しく浮かび上がらせることができる――そう在ることはむしろとても幸せで、美しいものなのではないかと』



 睡蓮はそうやって、月の在り方を強く肯定していた。

 それはきっと自分が呪いとなり、煌めきのない「死」の中で、煌めいている数多の「生」や「世界」を変えていこうとする、彼女なりの決意だったのだろう。


 私はそっと、空に浮かぶ夕月へと手を伸ばす。

 それは本当に遠くて、到底手が届くことはなさそうだったけれど――




 ――それでも私は、月を壊そうと思った。




「…………ねえ、睡蓮」


 私はそっと、彼女へと語り掛ける。


「何度も私に会いに来てくれて、ありがとう」


 そっと、微笑みを浮かべる。


「……だから今度は、私が貴女に会いに行くね」


 その方法すら、今の私にはわからなかったけれど。

 どうにかして、睡蓮の元に辿り着いてみせようと強く決断した。

 そうして再会することができたのなら、友人らしく精一杯の喧嘩をしよう。




 睡蓮――私は貴女に、もう誰のことも呪わせない。

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