24
翌朝、私はぼんやりとした意識を携えながら、高校の敷地内を歩いていた。
真っ白な校舎を眺めていると、村瀬さん、篠倉さん、そして佐山さんの昨日の姿が思い出されて、悲しい気持ちになる。
今日は何も起こらなければいい、今日だけでなくずっとこれからもそうであればいい……そんなことを考えながら、昇降口に向かって歩き続ける。
――そのとき、少し遠くから悲鳴が聞こえた。
何事かと思って、声のした辺りをばっと見る。そこでは数人の生徒が立ち止まって、呆然と上の方を見つめていた。何かあるのだろうか――そう思いながら、私は彼女たちに倣うようにそっと視線を上げる。
そうして目に飛び込んできた光景に、思わず目を見張った。
屋上のへりに、三人の生徒が並ぶようにして立ち尽くしている。
呆然とした。どうして、あんなところに? そう思った自分を馬鹿にするかのように、すぐに答えが心に浮かぶ。あの場所に立つなんて、きっと理由は一つしかない……
そのとき私は、恐ろしい事実に気が付いてしまう。
――その三人の生徒には、確かな見覚えがあった。
「…………だめ、」
私はかすれた声で、そう呟いた。
気付けば走り出していた。足がもつれそうになって、それでも全力で駆けた。
ただ、屋上を――佐山さんたちの元を、目指した。
ぜえぜえと息を切らしながら、私は革靴のままで廊下を駆けていた。
他の生徒とぶつかりそうになるのを何とか避けて、目的地への最短距離を考えながらひたすらに走る。やがて屋上へと続く階段が姿を現して、私は深く息を吸い込んでから、一段飛ばしで駆け上がり始めた。
――ふと、この場所が冷たい香りで満たされていることに気付く。
「すいっ……れん……」
私はどうにか、彼女の名前を呼んだ。
「だめだよ……そんなこと、ぜったいに……しちゃだめ、だよ、」
泣いてしまいそうになりながら、私は動かなくなりそうな足を叱り付けるように動かし続ける。
「どうか……もう、やめて!」
そう叫んで、踊り場へと足を踏み出したときだった。
――私の意識は、ぷつりと途切れた。
気付けば私は、涙を流している私のことを見つめていた。
「…………え、」
今自分が置かれている状況がすぐに理解できなくて、何度も瞬きを繰り返す。目の前には確かに、泣いている自分の姿があった。体育座りをしているそんな私の周りには、茶色がかった毛束が幾つも散らばっていて……そしてようやく私は、これが過去にこの場所で起こった光景なのだと思い出した。
私は私の姿を捉えながら、呆然と立ち尽くす。
(……許せないだろう?)
後ろから、声がした。
ずっと、ずっともう一度聞きたいと思っていた、そんな響きの声だった。
私はすぐさま振り返ろうとする。けれど、金縛りに遭ったかのように身体が動かない。どうしてともどかしく思う。
声を出すことは、できた。
「睡蓮、なの……?」
そう問うたけれど、私の背後に立つ彼女はそれに答えようとはしてくれなかった。
(他者が気に食わないからといって虐めを行う人間を、許していいはずがない)
(少なくとも、わたしは許そうとは思わない)
(限りない苦しみを味わって、そうして死ねばいいと思う)
(“殺さなきゃいけない”と……そうやって思うんだ)
どす黒い憎悪に満ちたそんな言葉が、私の耳元でささやかれたかのように響く。
「そんな……だめ、だよ、」
私は声の震えを何とか抑えながら、そう告げた。
(…………どうして?)
その言葉の響きは、先程までとは少しばかり異なっていて。
そこには憎悪だけではなく、哀情のようなものが含まれているように感じられた。
私は早い呼吸を繰り返しながら、どうにか伝えたいことを紡ぎ出す。
「確かに、虐めをすることはよくないと思う……それは、間違いないよ。けれど、だからといって、その人たちを殺していい理由にはならないんじゃないかな? だって死んでしまったら、後悔する時間もやり直す機会も、全て失われてしまうもの……」
少しの間、私と睡蓮の間を沈黙が満たしていた。
過去の私が嗚咽を漏らす音が、夕暮れどきの踊り場に淡く響いている。
やがて、声が聞こえた。
(……琴子がそうやって言うことができるのは、君が今の君だからだよ)
そんな言葉を最後に、私の意識は再び暗いところへと落ちていった。
――少しずつ、まぶたを持ち上げていく。
私は自分が踊り場に倒れていることに気が付くと、ばっと上体を起こした。
眠っていた……?
睡蓮と、話すことができた……?
そんな疑問と共に、私は今の自分が置かれている状況を思い出し、ひゅっと息を吸う。
早く屋上に行かなくては――そう思って、私は再び階段を駆け上がる。そうしてようやく、その場所が見えてきた。
普段は閉鎖されているはずなのに、今日は鍵が挿しっぱなしになった扉が開かれていて、秋の冷えた空気が校内へと入り込んでいた。私は飛び込むように、屋上へと一歩を踏み出す。
佐山さんたちの姿を、探そうとした。けれど、どれだけ周囲を見渡しても、三人のいる気配はない。私はばくばくと脈打つ心臓をどうにか抑えながら、ゆっくりとコンクリートの地面を踏みしめる。
……そうして、設けられた柵の向こうに、三足の革靴が置かれていることに気付いた。
「…………そんな、」
私は独り言を漏らしながら、屋上に立ち尽くす。
悪い夢かもしれないと、そう思った。今までに起きたことは全て悪夢で、そもそも睡蓮はいなくなってすらなくて、もうすぐ覚めるのかもしれないと、そんな馬鹿みたいな考えに私は浸っていた。
けれど一向に、この現実が終わりを告げる気配は訪れない。私はのろのろと、革靴の方へと歩き出す。……確認しなければならないと、そう考えたのだ。私は愚かにも、この状況に対する救いを求めようとしていた。そこに置かれている三足の革靴が、ただの誰かの忘れ物である僅かな可能性を、手繰り寄せようとしていた。
柵を乗り越えながら、「大丈夫だよ」と呟く。そう自分に言い聞かせていないと、私の足はすぐに止まってしまいそうだった。「大丈夫だよ、」少しずつ、「大丈夫だよ、」革靴が、「大丈夫だよ、」近づいてくる。
私は祈るように両手を組んでから、そっと身を乗り出して地上を見た。
……結局、そこに救いはなかった。
どうしようもないほどに、鮮烈な――
――あかいろ、だった。
「う……ああ、あああああ……」
私の口からは、言葉になれなかった音がぼろぼろと、溢れる。
地面にへたり込んで、震えてしまう身体を掻き抱くようにしながら、
「あああああああ……ああああああっ………! うああああああああああああ…………!」
私は慟哭のような叫び声を、ずっと、ずっと漏らしていた。
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