21

 ――微睡みの中にいた。


 私は暗い世界に横たわっていた。そこではずっと、雨が降っている。私の身体は延々と冷たい雨に打たれている。寒くて、寂しくて、ほのかに悲しかったけれど、私はそこから動くことができなかった。沢山の足が見える。沢山の足は忙しなく動き回っている。沢山の足を羨ましく思う。沢山の足は動けないこととは無縁のように感じられるから。沢山の足はずっと私のことを馬鹿にしたように笑っている。あはは、ははははは、はははは……


 私の頬に、一段と冷たい雨の雫が落ちた――




 ……そうして、目を覚ました。

 霞がかった意識で、時計の方を見る。七時半を示していたから一瞬朝かと思ったけれど、外は真っ暗だった。その情報を得てようやく、学校から帰ってきてすぐに疲労で眠ってしまったことを思い出す。

 変な時間に寝てしまったなと感じながら、ベッドの上に転がってぼんやりとしていた。



 ――ぽたり



 驚いて、身体をびくりと震わせる。自分の頬にそっと手を触れると、そこには柔らかな感触があるだけだった。間違いなく今、私の頬には水滴のようなものが落ちたはずなのに。


 それは先程まで見ていた夢に似ていた。数多の足が行き交っていた映像が頭の中で思い出されて、その不気味さに怯えを抱く。


 雨漏りだろうかと思って天井を見たけれど、そこには水の痕跡はなかった。だとすれば、今起きたこれも、きっと睡蓮が……

 そこまで考えたところで、私は思わず息を呑んだ。


 ――天井に昔からあった汚れが、明らかに大きくなっている。


 以前は少しばかり目立つくらいだったそれは、最早気に留めないことができないくらいになっていた。しかも、一つの纏まりだったはずの汚れが、三つほどに分かれている。色までもが黒ではなく赤さを帯びて、どこか赤黒い有り様へと変貌していた。それはまるで……血のようで。


 手がぶるぶると震えてしまっているのに気が付いた。私は両手を組み合わせるようにして、何とかその震えを抑えようと思った。


「怖がったらだめ、怖がったらだめ、怖がったらだめ…………」


 自分へとそう言い聞かせながら、私は天井の汚れと目を合わせ続ける。視線を逸らしてしまったら、それは睡蓮を拒絶してしまっているように感じられて、私はそんなことを絶対にしたくなくて……


 そうしていたら、私はとあることに気付いた。

 赤黒い汚れが、何か文字のように見えるのだ。

 それは朧げで、記憶の中にある文字と照らし合わせるのに少しの時間を要してしまう。

 やがて私は、恐らくの答えを導いた。



 “い” “た” “い”



 ――そう、書いてあるように見えた。


「痛い、の……?」


 私の言葉は静かな部屋に溶けていき、赤黒い汚れだけがただ、私の視界に留まり続けていた。


 ◇


 翌日の三限は英語の授業だった。年配の女性教師は喋り方がゆっくりで、気を付けていないと眠りそうになってしまう。私は眠気を誤魔化すために時折足を組み替えながら、返却された英単語の小テストに関する板書を自分のノートに書き写していた。


「では、教科書に移りましょう……今日は六十七ページからですね。ここの英文を……では、村瀬さん。読んでいただけますか?」


 指名されたのが自分ではなくて安堵する。この先生は生徒によく英文を音読させるのだが、私は目立つのが苦手な上に英語の発音が不得意なので、できれば当たりたくないのだ。

 もっとも、眠気覚ましにはなるのかもしれないけれど……そんなことを考えながら、立ち上がった村瀬さんにぼんやりと視線をやる。


「……わたしはしてはいけないことをしました」


 そう、村瀬さんは言った。

 先生は不思議そうに微かに首を傾げる。

 私は他のクラスメイトたちと同じように、村瀬さんを見つめ続けていた。


「ゆるされざることをしました。ほんとうにごめんなさい。わたしはしてはいけないことをしました。ゆるされざることをしました。ほんとうにごめんなさい。わたしはしてはいけないことをしました。ゆるされざることをしました。ほんとうにごめんなさい…………」


 村瀬さんは静かな教室の中で、そんな言葉をずっと繰り返す。

 そして、呆然としている私たちの前で、糸が切れたかのように床へと倒れ込んだ。

 大きな音がして、私はただ目を見張る。


「郁枝っ!」


 そんな彼女へと一番に駆け寄ったのは、篠倉さんだった。


 篠倉さんは村瀬さんの身体を抱き寄せると、「……保健室に、連れて行きます」と言って運ぼうとする。けれど、篠倉さんは小柄だからか中々うまくいかない。彼女たちの近くにいた一人のクラスメイトが、「あ、あたしも手伝うよ!」と言いながら近付いていく。


「来ないでっ!」


 ……篠倉さんは手を差し伸べたクラスメイトを、ばっと払い除けた。

 そのまま篠倉さんは、寒いところにいるかのように歯をかちかちと言わせながら、ぶるぶる震え出した。彼女の目に、大粒の涙が浮かんでいく。


「……どうすればつぐなえますか?」


 篠倉さんはそう言ったのを皮切りに、溢れ出して止まらないかのように言葉を続ける。


「もうにどとこんなことはしません。ほんとうにごめんなさい。どうすればつぐなえますか? もうにどとこんなことはしません。ほんとうにごめんなさい。どうすればつぐなえますか? もうにどとこんなことはしません。ほんとうにごめんなさい…………」


 篠倉さんは嗚咽を漏らしながら、そう繰り返す。

 やがて彼女は、村瀬さんと同じようにふっと意識を失った。


 少しずつ騒がしくなっていく教室の音を聞きながら、私は何もすることができずに、寄り添うように倒れている村瀬さんと篠倉さんを見つめ続けていた。

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