20
訪れた昼休み、私はあてもなく校内を彷徨っていた。
夜中に余り眠れなかったからか随分と眠くて、このままでは午後の授業で寝てしまいそうだと感じ、歩くことで何とか眠気を飛ばそうと思ったのだ。
階段を昇って、一番上の階である四階へと足を運ぶ。この階には特にクラスの教室はなく、代わりに理科室、美術室、家庭科室といった教室が並んでいる。そのため移動教室の際に訪れることが多く、昼休みの今はそこまで人がいないようだった。
――ふと、少し遠くに、窓の向こうを見つめている生徒がいることに気付く。
彼女の姿には見覚えがあった。重たい印象を受ける黒の長髪、何事にも興味がなさそうなどこか悲しげな表情、すらりとした脚を包む黒のタイツ――それは同じクラスの、国府田さんだった。
二学期の頃から、昼休みの時間に教室で彼女を見掛けることは稀だったが、こんな場所で過ごしていたのかと思う。もっとも、毎日のようにここにいるのかはわからないのだけれど。
引き返そうかと考えて足を止めたとき、私の脳裏に一つの疑問がよぎる。
……国府田さんの元にも、心霊現象のようなことが起きているのだろうか?
それがわかれば、この不可解な状況の真相に少しだけだけれど近付けるような気がした。私は意を決して、国府田さんの元へ少しずつ近付いていく。彼女は私に気付いた様子もなく、ずっと窓の外の景色を眺めていた。
「……あ、あのっ」
クラスメイトに話し掛けるのが久しぶりで、声が上擦ってしまう。恥ずかしさをどうにか抑えて、こっちを向いた国府田さんと目を合わせた。
「……寺嶋さん? 私に何か用ですか?」
怪訝そうに言う国府田さんは、やっぱり敬語口調だった。その事実に少し寂しくなりながら、私はどうにか言葉を紡ぎ出す。
「急にごめんね。その……国府田さんに、聞きたいことがあって」
「聞きたいこと、ですか? 別に答えられる範囲であればいいですけど」
「ありがとう。ええと……最近国府田さんの周りで、変なことが起こったりしていない?」
「変なこと?」
眉間に少し皺を寄せた国府田さんに、私は「そう」と頷いてみせた。
「何か、その……心霊現象、みたいなこと。そういう不思議なことに、何か心当たりがあったら教えてほしくて」
「心霊現象、ですか……」
国府田さんはちょっとだけ考える素振りを見せてから、すぐに首を横に振る。
「全然思い当たりませんね」
「そっか、そうなんだね……ありがとう」
「別にいいですけど。で、どうしてそんなこと聞くんです?」
国府田さんに尋ねられて、どうしようかと思う。信じてもらえるかもわからないし、はぐらかそうかと一瞬考えた。
けれど、彼女の黒い瞳に真剣に見つめられると、嘘をつくのはよくないような気がしてくる。正直に話そうと、そう決めた。
「実は私とか、村瀬さんや篠倉さんの周りで、最近そういう不思議な出来事が起きているの。私に起こったことだと、自分以外に誰もいない家で扉を叩く音が何度も聞こえたり、鏡を見たら後ろに立っている人の姿が映ったり」
「へえ……そんなことが」
国府田さんは特段驚いた様子もなく、ゆっくりと相槌を打っていた。
「そうなの。……私はそれが、睡蓮が引き起こしているものなんじゃないかと思っていて」
「睡蓮って……戸田さんのことですか?」
「うん」
私が頷くと、国府田さんは少し表情を陰らせる。睡蓮と国府田さんに余り交流はなかったとはいえ、彼女もクラスメイトとの別れに思うところはあるのかもしれなかった。
国府田さんは私を見据えながら、再び口を開く。
「それは、どうしてです?」
「色々理由はある。こういう現象が私たちに起こるようになったタイミングとか、睡蓮のお葬式でもそういう出来事があったとか。……でも一番の理由は、さっき話した鏡に映った人の姿が、睡蓮だと気付いたことなの」
睡蓮の話をしていると悲しくなってきてしまって、私はその感情に溺れないように、手のひらに爪を食い込ませた。
「そうなんですか。鏡の中にいたのは、間違いなく戸田さんだったんです?」
「うん。……睡蓮のことを見間違えたり、しないから」
「なるほど」
国府田さんは、そっと目を伏せた。
「でも……それが本当だとしたら、そうした現象にはどういう意味があるんでしょう。そもそも、戸田さんは貴女と仲がよかったですけど、郁枝ちゃんや都ちゃんとはそうでもなかったし、むしろ対立していたように思えるんですが」
「いくえちゃん」と「みやこちゃん」が一瞬誰のことかわからなかったけれど、村瀬さんと篠倉さんのことだと思い当たった。親密な呼び方に少し戸惑うも、思い出す。一学期の頃は、国府田さんは佐山さんのグループに所属していたのだった。
そうだったと納得すると同時に、仲の良かった友人同士が決裂してしまったという事実に寂しくなる。
「そうなんだよね……私も、それが気に掛かっていて」
「……これは、あくまで私の主観ですが。仮に、本当に戸田さんが、そうした出来事を今引き起こしているとしたら。戸田さんが貴女の元に訪れている理由と、郁枝ちゃんや都ちゃんの元に訪れている理由は、恐らく異なっているんでしょうね」
国府田さんの言葉に、私は唇を噛む。
……自分が昨日思い付いてしまった考えが正しいのだと、突き付けられているようで。
何も言わないでいる私に、国府田さんは言葉を続ける。
「それにしても、郁枝ちゃんや都ちゃんも大変ですね。そうなると、律佳ちゃんの元にも何か起きていそうですし……可哀想です」
彼女はそう言って、普段から浮かべている悲しげな表情をいっそう強めた。
それは本当に、心の底から感じているような悲哀で。
だから、私は疑問に思ってしまう。
気付けば口を開いていた。
「……国府田さんは、恨んでいないの?」
「え?」
「その……佐山さんや、村瀬さんや、篠倉さんのこと。だって、あの人たちは……国府田さんに、沢山酷いことをしたじゃない」
国府田さんは、ぱちぱちと瞬きをする。
それから、ふっと微笑んだ。
その微笑みは、とても綺麗で……そしてどこか、切なげで。
「ええ。別に恨んでいませんよ」
「……どうして、」
「単純な話です。色々なことをされても、嫌われても……それでも私は、皆を好きでいることがやめられなかったんです」
あれだけのことをされたのに……?
私はそんな風に、思ってしまった。
国府田さんは少しばかり目を細めて、懐かしむように話し続ける。
「私、中学の頃までは全然友達がいなかったんです。むしろ友情とかそういうものを、馬鹿らしいなとまで思っていて。……そんな私に初めてできた友達が、律佳ちゃんだったんですよ。私の若干捻くれた部分を、面白いって褒めてくれたんです。気付いたら私は、昔は馬鹿にしていた友達という存在が、何よりも大事になってしまって」
それがいけなかったんでしょうね、と国府田さんは悲しそうに笑った。
「夏休みにね、律佳ちゃんに恋人ができたんです。習い事で知り合った他の高校の男子だったんですが……その人ね、暴力を振るう人だったんです。気に入らないことがあると、律佳ちゃんを傷付けるんです。私、それがすごく嫌で……そして、今までは友達が一番だった律佳ちゃんが、屑みたいな恋人を一番にしてしまったことにも、嫉妬してしまったんですよね」
私は何も言うことなく、国府田さんの話を聞いていた。
「だから私、律佳ちゃんに怒っちゃったんです。それで、言っちゃったんです……『貴女たちの間にあるのは、正しい愛じゃない』って」
正しい愛――その言葉が、私の心に突き刺さる。
睡蓮とのやり取りが、思い出される。
「律佳ちゃんはぼろぼろ泣いて、私のことを強く突き飛ばして、そうして帰っていきました。それから学校が始まるまで連絡を取ることはなく、こういう状況になってしまったんです」
「……そう、だったんだね」
ようやく言葉を発した私に、国府田さんは「そうだったんです」と笑った。
「……あのとき、もっと違う言動を取っていればよかったのかな、なんて思うこともあります。でも、仮にやり直せたとしても、私はまた間違えると思うんです。だから、そんなに後悔はしていません」
国府田さんは目を伏せながら、諦めたような微笑みを零した。
「急にこんな話をしてしまってすみませんね。もしかしたら私は、昔のように友達がいなくなってしまった今、誰かに話を聞いてほしかったのかもしれないです」
「ううん、気にしないで。話してくれてありがとう」
そんなやりとりを最後に、少しの時間私たちの間を沈黙が満たす。
きっと国府田さんは、自分のしたことやそれが導いてしまった現実について、何度も悩んだのだろう。そんな彼女に寄り添うことはできないだろうか、何か言葉を掛けられないだろうか――そう思って、私はゆっくりと口を開いた。
「……私は、愛には正しさも過ちもないと思っているの」
国府田さんが視線を上げる。目が、合った。
「誰かを愛するということは、それだけで尊いはずだから。……でも、そういう愛によって相手を深く傷付けてしまうのは、きっと間違っているのだと思う。だから私は、国府田さんが言いたかったこともわかるし、佐山さんが怒ってしまったこともわかる。……そういうすれ違いが二学期の状況を招いてしまったのは、すごく悲しいと思った」
私が口を閉じると、国府田さんは柔らかく頷いて、口元を緩めた。
「寺嶋さんは、優しい人ですね」
「……そうかな?」
「ええ。そう思いましたよ」
そう言った後で、国府田さんは腕時計を確認すると、「そろそろ教室に戻りましょうか」と淡く笑った。
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