19

 家に帰ってきた私はベッドの上に転がりながら、村瀬さんと篠倉さんの会話を思い出していた。

 彼女たちは、心霊現象に悩まされているのだという。その具体的な内容まではわからなかったけれど、睡蓮がいなくなってから起こるようになったということは、私の状況と近しい気がした。

 そして今の私の中には……私の身にあった不思議な出来事は、睡蓮が引き起こしたのではないかという仮説がある。


 


 ……でも、どうして?

 睡蓮が私の元に訪れていることは理解できる。きっと彼女は……私のことを、好きでいてくれたから。だから今も近くにいてくれるのだろうかと、そう思っていた。


 けれど……村瀬さんや篠倉さんに、睡蓮がいい印象を持っていたとは思えない。世界から虐めをなくしたいと思っていた彼女が、実際に虐めに加担していた人間に好意的だということなどあり得るだろうか。むしろ恐らく、悪い印象を抱いているはずで――


 ……そこまで考えて、ぞくりとする。


 浮かんでしまった思考を否定したかった。でも、そうすることはできなかった。心がどんどん、夜の海のような暗くて深いところへとらわれていく。私は自分の身体を腕で掻き抱くようにしながら、ぎゅっと目を閉じた。



『……わたしはただ、許せなかっただけだから』



 そんなかつての睡蓮の言葉が、私の頭の中で反響していた。


 ◇


 夜になって眠ろうとしたのだけれど、中々寝付くことが出来ずにいた。睡蓮やそれに関わる出来事ばかり考えてしまって、普段ならば訪れるはずの眠気が一向にやってこない。


 少し気分転換をしよう――そう思って、私はベッドから起き上がると、手探りで部屋の明かりをつけた。時計を見れば、深夜の一時半を示している。私は小さく溜め息をつくと、少し悩んだ末にノートパソコンを手に取った。

 久しぶりに小説を書こうと思ったのだ。多少なりとも頭を使う作業だから眠くなる可能性が高いし、何より睡蓮がいなくなってから執筆から遠ざかっていることに、罪悪感や申し訳なさに似た感情が私の中にあった。睡蓮は私の小説が大好きだと言ってくれていたし、私が小説を書くことを愛していると知っていたから。


 電源を入れると、軽やかな起動音と共にデスクトップが表示される。「小説」というフォルダをクリックすると、自分が今まで書いてきた幾つもの短編小説のファイルが並んでいた。『琥珀』『庭園』『涙雨』――それらには、そんな漢字二文字のタイトルが表示されている。

 私は小説のタイトルを考えるのが余り得意ではなく、こうした単語のようなものを採用することが多かった。自分では苦手分野だと思っているけれど、睡蓮は綺麗な題名だと褒めてくれたな……そんなことを思い出し、私の胸はきゅっと痛んだ。


『涙雨』が一番新しい小説で、書き始める前に睡蓮に構想を話したことがあった。完成したら読ませてほしい――彼女はそう言ってくれていたけれど、タイミングが合わないでいたら、結局読んで貰えることはなくなってしまった。

 気付けば私は、『涙雨』のファイルを開いていた。画面を時折スクロールしながら、冒頭からゆっくりと読んでいく。


 ――永遠に雨が降り続ける島に、少女はひとり住んでいる。家族からは見放され、友人も恋人もいたことがなく、だから彼女は「自分は誰からも愛されることはない」と信じて疑わなかった。あるとき、そんな島に少年が訪れる。気さくな彼に惹かれていく少女は、けれど彼が自分のことを愛してくれることはないと思い、毎夜のように涙を流す。でも本当は、少年は少女のことを愛していた。少女は雨が降る島に別れを告げ、少年と共に初めての青空を見る――


 読み終えて、一息つく。そうしていると、睡蓮の言葉を思い出した。彼女は私の小説を……そして、その中で描かれている愛のことを褒めてくれた。けれど私にはやっぱり、自分の描いた愛の無垢さとか、真っ直ぐさとか、そういうのはよくわからなかった。


『わたしの愛は、少しも綺麗なものじゃないから』


 何かを諦めていたような彼女の微笑が、私の脳裏に蘇る。


「……そんなこと、ない」


 私の口からは、あのとき忘れていた彼女の言葉に対する否定が零れ落ちていた。

 私はそっと、文書作成アプリを起動する。パソコンの画面に、まだ何も言葉が書かれていないまっさらな白紙が映し出された。タイトルはすぐに決まる。……『睡蓮』。

 どんなストーリーにするかとか、どんなラストになるかとか、そんなことはまるでわからなかったけれど、ひたすらに書こうと思った。私は私の最愛の友人に向けて、ただ伝えたかったのだ。


 ――貴女は、貴女のままでいいのだと。

 貴女には貴女のことだけを、救ってほしかったのだと――




 ……少しずつ、まぶたを開いていく。


 朝かと思って時計を見たら、まだ午前四時前のようだった。どうやら、机に突っ伏して眠ってしまっていたらしい。私は目を擦りながら、開かれたまま放置されていたノートパソコンを操作する。そこには書きかけの小説が残されていた。

 冒頭から読んでみると、感情のままに書き殴った印象ばかりが先行して、全然小説としては上手じゃなくて、……それでも何だか私は、この小説が好きだと思った。


 最後の一文に目を通したところで、違和感を覚える。

 まだこの一枚が埋まりきっていないのに、最後にもう一枚ページがある。

 何だろう――そう思って私は、画面をスクロールした。







           許して







 ――そんな文字だけが、画面の真ん中に表示されている。


「…………貴女なの?」


 そう尋ねても、答えは返ってこない。自分の意思とは関係なしに強く動いてしまう心臓が、嫌だった。

 私は少しの間、その言葉を……「許して」の意味を、考えていた。

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