17

 部屋に戻った私は、真っ白な照明の明るさに包まれながら、布団の中でぼんやりと天井を見つめていた。

 ふと天井にある小さな汚れが、少しばかり大きさを増しているような気がした。恐らく気のせいだろうと思った。


 ぼんやりとしていると、今日家で起こった不可解な出来事が頭に浮かんでくる。誰もいないはずなのに叩かれる部屋の扉、いつまでも聞こえる存在していない雫が落ちる音、そして鏡の中で見えた黒い髪の人の後ろ姿――どれも、思い出すだけで身が縮こまるようだった。

 けれどそうした出来事によって、私の中には一つの仮説が生まれていた。



 ……睡蓮は幽霊となって、今も私の側にいるのではないだろうか?



 現実的な物の見方をする人なら、突飛な発想だと笑うだろう。けれど私は、そういう「あの世」みたいなものを信じていた。小さい頃からその気質はあったけれど、睡蓮と出会ったことでよりその信仰は強固なものとなった。彼女が猫の幽霊と話していたことを、私は半年よりも長い時間が経った今でも鮮明に覚えている。


 気付けば私は、何かに引き寄せられるかのように口を開いていた。


「……ねえ、睡蓮」


 少しだけ、何かしらの返事があることを期待してしまう。けれど部屋は、しんと静まりかえっていた。私は一度だけ唇を噛んで、また話し始める。


「貴女は今も、私の近くにいるの……?」


 不思議なくらい、するすると言葉は生まれていく。


「もしそうだとしたら、今日は沢山怖がってしまってごめんね」


 それだけ私は、睡蓮ともう一度話したいと思っていたのかもしれない。


「どうして私たちは、幽霊を怖いと思ってしまうのかな……ずっと昔から、不思議に思っていたの。だって幽霊は、かつてはこの世界に生きていたはずなんだよ。きっと誰もが、誰かの大事な存在だったはずなの」


 答えは返ってこないけれど、それでもいいような気がした。


「だとすれば、幽霊がいることはむしろある種の救いなんじゃないかな? それなのに、怯えてしまうなんて変だよね……ああ、でも、そうだ。貴女は、必ずしもそうではないのかな。私ね、睡蓮が猫の幽霊と喋っていたこと、ずっと覚えているんだよ。あのときの貴女は、とても優しかった……ううん、違う。貴女はいつだって、優しかったね」


 彼女の返答を、愚かな私はまた怖がってしまうかもしれないから。


「崇高な理想も、私のためを思って暴力を振るってくれたことも、夕暮れの公園で泣いている私を抱きしめてくれたときも。ずっと、ずっと優しかった。……今、貴女が生きていたときに戻れたら、私は貴女に伝えたい。睡蓮は、睡蓮にだけ優しくすればいいよ。それだけで、いいんだよ。……そうすれば、」


 だからきっと、私が睡蓮に望むことは一つだけだった。



「こんな未来は、訪れなかったんじゃないかな……?」



 ――かえってきて、ほしい。


 ◇


 ――その日私が夢に見たのは、皮肉にも数日前に訪れた睡蓮の葬式の光景だった。


 ◇


 彼女の葬式は随分と小規模だった。親族も余り来ておらず、友人に至っては私のみだった。

 睡蓮の父親が既に亡くなっているということを、私はこの場所で初めて知ることとなる。睡蓮の母親は小柄で優しそうで、そしてとても悲しそうな顔をしていた。初対面だったけれど、彼女は私のことをよく知っていた。


「睡蓮はわたしに、よくあなたの話を聞かせてくれたわ」


 式が始まる前、懐かしむように睡蓮の母親は言った。


「あなたのことを話しているとき、睡蓮はとても幸せそうだった。……そしてわたしも、睡蓮からあなたの話を聞くのが好きだったのよ」


 その言葉を聞いたとき、私は思わず泣き叫んでしまいたくなった。

 けれど、その気持ちをぎゅっと抑えて、「……ありがとうございます」と伝えるのに留めた。




 式自体は滞りなく終わり、気付けばお別れの儀の時間がやってきた。


 睡蓮は、生きていたときと違わぬ美しさだった。棺の中にいる彼女は、ただ眠っているだけのように見えた。それほどまでに、睡蓮は睡蓮のままだったのだ。烏の濡れ羽色をした髪の毛も、綺麗な長い睫毛も、雪のように真っ白な肌も――全てが、あの頃の睡蓮のままだった。


 私はそんな睡蓮を見つめながら、手に持っていた花々を棺の中へ入れていった。やがて彼女の身体は数多の花に包まれて、そうなった姿を見ていても私はまだ、睡蓮はただ深い眠りに落ちているだけなのではないかと考えていた。きっとそれは、私の愚かな願望だったのだと思う。


 やがて、睡蓮の棺は閉じられる。運ばれていく棺を見ていた私はふと、これから睡蓮は火葬されてしまうのだ、と思った。最初からわかっていたことのはずなのに、私はその事実へ狂おしいほどの絶望を覚えた。睡蓮の肉体が、この世界からなくなってしまう――


「…………やだ、」


 私は小さな震えた声で、独り言を呟いた。


「いか、ないで」


 手のひらに、抉るかのように爪を食い込ませる。


 ――そのとき、不思議なことが起こった。



「…………にい……るよ」



 そんな声が、後ろから聞こえた気がした。睡蓮の親族が話し掛けてきたのかと考えて、驚いて振り向く。


 ……けれどそこには、誰もいない。


 私は暫しの間呆然として、そうしてまた棺の方へと向き直った。


 ◇


 ――今思えばこの出来事も、睡蓮が引き起こしたのではないだろうか……?



 そんな思いも、私の愚かな願望の一つなのかもしれないけれど、

 ……信じてしまうことすら、許されないだろうか。

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