16
放課後、家に戻った私は自室で数学の宿題を片付けていた。大問を一つ解き終えたところで、ふと窓の向こうを見る。
沈みかけの夕陽によって町はオレンジ色に染まっていた。以前はこの時間でも明るかったはずで、それが季節の移ろいを思わせた。
秋が終われば冬が来て、春が訪れて夏となり、そうしてまた、秋になるのだろう。そんなことは当たり前のはずなのに、今の私は時間が過ぎ去ってゆくことが怖かった。
それは多分、睡蓮だけが過去の一部分に留まって、置き去りになっているように感じられるから。
シャープペンシルを投げるように置いて、私は開かれたノートの上に突っ伏す。
視界の隙間から、美しい夕焼けをぼんやりと眺めていた。
――こん、こん
目を見張り、顔を上げて扉の方を見る。それは間違いなく、自室の扉が外から叩かれた音だった。でも……誰? だってこの家には今、私しかいないはずなのだ。共働きの両親は私が帰宅したときに家にいなかったし、帰ってきた音もしなかった。そうだとしたら、今誰が扉を叩いたのだろうか……?
気のせいだったのだろうと、そう思った。私は再び問題集に視線をやると、気持ちを切り替えるようにノートへとシャープペンシルを走らせる。ええと、この問題にはあの公式を使えばよくて……
――こん、こん
……手を止める。
気のせいではないと、そうささやかれているかのようだった。心臓を掴まれているような心地を覚えながら、私は少しの間扉を凝視する。誰――そんな疑問で頭がいっぱいになっていく。
無視することもできなくて、気付けば私は扉の方へと歩き出していた。
立ち止まる。見慣れているはずの焦げ茶色をした大きな扉が、今の私には恐ろしく感じられた。ゆっくりと、扉の取手に手を掛ける。呼吸を繰り返しながら、少しずつ扉を開いていく。
……けれどそこには、誰の姿もなくて。
暗い廊下を見つめている私を笑うかのように、どこからか聞こえる烏のかあ、かあという鳴き声が小さく響いていた。
◇
適当に用意した夕ご飯を食べ終えて、私はお風呂場でシャワーを浴びていた。
シャワーヘッドを固定して椅子に座っていれば、身体を洗っていた石鹸が勝手に流れていく。私はそうしながら、温かいお湯の温度をただぼんやりと感じていた。
肉体が綺麗になっていくのと同じように、思考も洗われていけばいいのにと思った。睡蓮がいなくなってから一週間ほどの時間が経っているのに、今の私は狂ったように彼女のことばかり考えている。
でも、全てが洗われてしまったら、私はもう睡蓮のことを片時も思い出すことなく生きていくのだろうか……? それは嫌だなと強く思って、泣きたい気持ちを堪えて微笑んだ。
少しして、私は蛇口を捻ってシャワーを止める。それから、浴槽に張っておいたお湯に足を入れると、ちょっとずつ身体を沈めていった。熱に包まれている感覚は、心地よかった。
目を閉じて、「……ずっと立ち止まっていてはだめ」とささやいた。少しずつ、少しずつでいいから、前を向かなくてはならない。睡蓮もきっと、それを望んでいるはずだ――そう考えながら、より強い力を込めてまぶたを閉じる。
そのとき、ぽた、ぽた……と音がすることに気付いた。私は目を開けて、耳を澄ませる。ぽた、ぽた、ぽた……水滴が落ちていくような音が、お風呂場に淡く響いていた。蛇口の閉め方が緩かったのだろうかと思って確認するも、シャワーヘッドからも水道からも水が滴ってはいない。
だとすれば、この音はどこから……?
ゆっくりと辺りを見渡したけれど、どこからも水滴は零れていない。窓の外で雨が降っている気配もない。それなのに今も、ぽた、ぽた、ぽた、ぽた……そんな規則的な音が、途切れることなく続いている。
……不気味、だった。早くお風呂を出よう――そう思って、湯船から上がる。
洗面所に出てお風呂場の扉を閉めると、さっきまでの音は聞こえなくなった。私はふうと溜め息をついて、ごわごわとしたバスタオルで身体を拭く。用意しておいたパジャマに着替えると、髪を乾かそうと思いドライヤーを用意した。それから私は鏡を見る。
――自分の後ろに誰かが立っている
私は言葉にならない叫び声を上げた。体勢を崩して転んでしまい、鈍い痛みが身体に走る。床に横たわっている私の心臓はばくばくと脈打っていた。見間違いではない……今、私の後方には間違いなく、人間の後ろ姿があった。
一刻も早くこの場所から逃げ出したいと思った。けれど、何も確認せずにここを離れることはむしろ恐ろしくも感じた。
目を閉じて十数秒の間葛藤した後で、まぶたを少しずつ開いて、私はゆっくりと振り向こうとする。怖い、でもずっと転がったままでいる訳にもいかない――私は息を落ち着かせながら、どうにかその方向を向く。
……けれどそこには、誰もいない。
私は大きく息をつく。見間違いをしてしまったのだろうかと一瞬自分を疑ったけれど、すぐにそれはないと思い直した。だって今も脳裏には、立っていた何かの姿が焼き付いている。その何かは、夜闇を溶かしたかのような黒さの髪をしていた。
……ふと、その色合いに見覚えがあるような気がした。私は床にへたりこみながら、思い出そうとする。
――そうしてすぐに、辿り着いた。
私は彼女の名前を、呟いた。
「…………すい、れん?」
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