二章 琴子の決断
15
――不思議な夢を見るようになった。
そこには一面の湖が広がっている。水面は本来なら真っ青な空を反射して美しいはずなのだけれど、その殆どは円形の葉、そして数多の花によって埋め尽くされている。
白、桃、青、紫――花の色合いはそのように様々で、どれもが神秘的な佇まいで咲き誇っている。
気付けば私は、そんな湖の上で立ち尽くしている。水の上に立てる訳がないから、普段の私ならばそこで疑問を抱くはずだけれど、夢の中の私は簡単にその事実を受け入れてしまう。
きまって私は、何かに引き寄せられるように歩き出す。
少しずつ進んでいくと、何かが見えてくる。……人間だ。そうして私は、ああ、自分はこの人の元に行こうとしていたのだ、と理解する。
その人は葉と花が取り払われた湖に、目を閉じながら浮かんでいる。烏の濡れ羽色をした髪は水の中に広がり、淡い色合いの唇にはほのかに水滴が付着している。ワンピースのような真っ白な衣服に身を包んでおり、濡れたそれから肌がうっすらと透けている。
そのときになって、私はようやく気付く。
――睡蓮だ。
虚ろだった私の脳内には一気に彼女との記憶が蘇り、そして睡蓮が帰らぬ人となってしまったことまでもを思い出す。私は少しの間呆然として、それからくずおれて睡蓮の肩を揺さぶる。
「睡蓮! 睡蓮ってば! 起きて……!」
私はそうやって叫んだ。睡蓮を起こそうと、何度も彼女の身体を揺り動かす。けれど睡蓮のまぶたは固く閉ざされたままだった。どうしたらいいの、そう思いながら私はまた口を開く。
「会いたかったの、貴女に……ずっと会いたいって思っているの。ねえ、どうして死んじゃったの? そればかり考えているんだよ、私。ずっと、ずっとそればかり……」
震えた声で紡いだ言葉は随分と自分勝手だった。けれどそれは心からの私の思いで、だからこそ睡蓮に伝えたかった。だってもう現実では、彼女に何も届けることができないのだ。
「睡蓮、お願い…………起きてよ!」
願うように、祈るように、私は彼女に向けてそう告げた。
……そのとき、だった。
最初は少しの違和感だった。それが段々と大きくなっていき、私は思わず息を呑む。
睡蓮がひび割れていく。
彼女の顔に、首に、腕に、手に、足に……露出している白い肌の全てに、赤色の亀裂が入っていく。そこからじわあ、と真っ赤な血液が溢れ出す。睡蓮が少しずつ、少しずつ壊れていく。閉じられた瞳からも涙のような血が零れる。睡蓮が段々と、段々と真っ赤な睡蓮になっていく。血は湖までもを赤く染めていく。世界が真っ赤になってゆく。
「い……嫌、」
私はそんな睡蓮を助けることも元に戻すこともできず、ただ見つめているだけだった。ぼろぼろと睡蓮の肉片が落ち始める。私はそれを必死に掻き集めた。睡蓮の肉片が一つずつ私に喋り掛けてくる。「ことこ」「ことこ」「ことこ」「ことこ」「ことこ」「ことこ」「ことこ」「ことこ」「ことこ」「ことこ」「ことこ」「ことこ」どれもがそんな風に私の名前を呼んで、私はそんな肉片たちがどこかへ行ってしまわないようにぎゅっと抱きしめる。「ことこ」「ことこ」「ことこ」どうしたらいいのかわからない。「ことこ」「ことこ」「ことこ」折角睡蓮に会うことができたのに。「ことこ」「ことこ」「ことこ」私はもう睡蓮を失いたくない、「ことこ」「ことこ」「ことこ」殺したくない、「ことこ」「ことこ」「ことこ」死なせたくない……
私の意識は段々と薄れていく。
意識を手放す前に、私はいつもこの言葉を聞く。
「……ごめんな」
それはとても優しくて、寂しい響きだ。
◇
私はがばりと起き上がった。
はあ、はあと荒い呼吸を繰り返す。身体は汗ばんでいて、私は額に滲んだ雫をそっと手で拭った。時間が経つにつれて息は段々と落ち着いてきて、その代わりに私の心は深い悲しみと絶望に浸されていく。
「睡蓮…………」
気付けば自分の口から、彼女の名前が零れ落ちていた。
私は、布団をぎゅっと両手で掴んだ。目を閉じると、さっきまで夢に見ていた睡蓮の姿が浮かび上がってきて、感情がぐちゃぐちゃになっていく。
いなくなってしまった睡蓮と夢で再会できた喜び、もう現実では会うことができないことへの悲しみ、睡蓮が赤く染まってゆく時間に対する恐怖――あの夢を見るのはもう三回目だ。私はいつも不思議な湖の上で、睡蓮が睡蓮ではなくなっていく瞬間を見せられている。
目を開いて、気を紛らすように時計を見る。学校に間に合うには、そろそろ起きて朝の支度を済ませなければいけなさそうだった。私はのろのろとベッドから離れて、自室の扉に手を掛けた。
教室に着いたのは、朝のホームルームが始まるぎりぎりの時間だった。
誰に挨拶することもなく、自分の席に座る。いないのはわかっているのに、いつも隣の席を確認してしまう。奇跡が起こらないかと考えている。何事もなかったかのように睡蓮が座っていて、呆然としている私に柔らかく笑いかけてくれるような、そんな奇跡が……
私はふと、佐山さんの机を見る。彼女は今日も来ていないようだった。睡蓮との一件があってから、佐山さんはずっと学校を休んでいる。
そして、教室の中での二人の消失に追随するかのように、国府田さんに対する虐めもなくなった。嫌がらせに加担していた村瀬さんと篠倉さんは、最近はとても静かに行動している。
虐めが終わったのは素晴らしいことなのだろうけれど、今の私には何だかどうでもよかった。
『わたしはこの世界から、虐めを一つ残らずなくしたいと思っているんだ』
睡蓮がかつて私に伝えてくれた言葉が、脳内で反響する。
私は机の上で自身の腕に顔を埋めて、微かな呪いのようにささやいた。
「……嘘つき」
睡蓮が死んでからもう何度も泣いたのに、目にじんわりと涙が溢れてきて、そんな自分が馬鹿らしかった。
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