12

 月曜日の朝、私は教室のドアの前で立ち尽くしていた。

 この場所に入るのが怖かった。ここには佐山さんたちがいて、また何かをされるかもしれない――短くなってしまった自分の髪に触れながら、浅く息を吸う。


 ……そして、理由はそれだけではなかった。


 土曜日にあった出来事は、今も脳裏に焼き付いている。睡蓮の部屋を訪れたこと、彼女の筆箱の中から血のこびりついたカッターナイフを見つけたこと、それが原因で睡蓮と口論になってしまったこと、それから――


 自分の唇にそっと触れる。空気が乾燥しているせいかかさかさとしていて、そこにはもう少しの湿り気も残されていなかった。


 睡蓮が取ったあの行動の意味を、何度も何度も考えた。

 そうしていながら、私は初めから気付いていたのかもしれない。その意味など明白で、ただそれを信じることができなくて、何か他の解釈を当て嵌めようとしていただけなのだろう。


 そうだとすれば……私はこれからどんな顔をして、睡蓮と接すればいいのだろうか。


 わからなかった。何事もなかったように話し掛けるのはきっと間違っていて、でも何かしらの答えを出すことを、私は心の奥深くで恐れていた。だってそれが原因で、私は睡蓮のことを失ってしまうかもしれないから。

 ……嫌だった。私は、睡蓮のことが好きだから。この「好き」は、睡蓮が私に向ける「好き」とは異なっているのかもしれないけれど、それでも私はやっぱり睡蓮のことが好きだった。限りなく、大事な人だった。


「……寺嶋さん?」


 後ろから声を掛けられて、私ははっとなる。

 振り返ると、そこには一人のクラスメイトが立っていた。彼女は不思議そうに首を傾げながら、口を開く。


「教室、入らないの?」

「……ああ、ごめんね。入るよ」


 どうやら入り口で突っ立っているので、邪魔になってしまったらしい。私はクラスメイトに微笑み掛けながら、ゆっくりとドアを開けた。先送りにしたって、いつかは入らなければいけないのだ――そう考えながら、重い気持ちで教室の中へと進んでゆく。


 睡蓮は、既に席に着いていた。いつもなら彼女におはようの挨拶をするのだけれど、今日はしていいのかわからなくて、私は無言で睡蓮の隣の席に座った。


 睡蓮は私に話し掛けてはこなかった。教室の喧騒が、今の私には針のように感じられた。他の場所が騒がしければ騒がしいほど、私たちの間にある沈黙が際立っているように思えて、それがどうしようもなく痛くて、……苦しい。


 気持ちを紛らすように、私は机の上で自分の腕に顔を埋める。目を閉じると、微かな赤みのある暗闇が広がった。照明がつくり出すほのかな赤みでさえ、今の私には辛かった。


 考えたくないのに考えてしまう。

 睡蓮が白雪のように綺麗な肌に一筋ずつ、赤い線を走らせていく瞬間のことを。


 ……それは、痛くはないの?

 それとも、その痛みですら救いに感じられるほどに、貴女は苦しんでいるの……?


「寺嶋さーん」


 声を掛けられて、一瞬だけ嬉しいと思ってしまった。

 睡蓮が私のことをそう呼んでいたのは、ずっと昔のことなのに。


 顔を上げれば、そこに立っていたのは佐山さんだった。ピンクベージュのセミロングヘアが、光を反射して鈍く輝いている。

 彼女の姿を見ているだけで、胃の中がぐるぐると回るような心地がした。自分の呼吸が、少しずつ早さを増している気がする。

 佐山さんは私にぐっと顔を近付けると、口角を上げた。


「髪短くしたんだー、似合ってんね?」


 笑っていた。

 やっぱり彼女の笑顔は、純粋だった。

 そして、私はこの人のこういう表情が、憎いと思った。

 ああ……睡蓮の笑った顔は、あんなにも、綺麗だというのに。

 泣いてしまいそうになる。でも、そうしてしまえば何かに負けてしまうような気がして、必死に堪えた。



 ――ひんやりとした香りが、した。



 何が起きたか理解するのに、少しの時間を要してしまう。その間にも、それはずっと続いていた。私はただ息を呑みながら、目の前で起きている光景を見つめていた。


 床に転がる佐山さんの苦しそうな声が響く。殴打の音が絶え間なく耳に届く。睡蓮の所々跳ねた黒い髪が、陽光を反射して美しく煌めく。汚物を見るような眼差しで、睡蓮は佐山さんに馬乗りになりながら、何度も何度も彼女のこぶしを振り上げては、下ろした。誰かの悲鳴を皮切りに、教室は確かな静けさに包まれていく。やめて、もうやめて――佐山さんにそう言われながら、睡蓮は暴力を振るうのを終わらせようとしない。……自分の目から微かに、涙が零れた気がした。


 睡蓮が一瞬だけ、私の方を見る。目が合う。彼女はそっと、微笑んだ。とても柔らかくて、優しくて、温かくて……そんな微笑みだった。睡蓮はすぐに顔を背けて、佐山さんのことをまた殴った。佐山さんの顔はすっかり腫れてしまっていた。そんな彼女を、睡蓮は壊し続けた。


 結局その暴力は、数人のクラスメイトの仲裁が入るまで終わらなかった。朝のホームルームのため先生がやってくると事情が説明され、睡蓮と佐山さんが教室から連れて行かれる。そうしてようやく私は、自分の席で喚くように泣いた。


 ◇


 ――その日、睡蓮と佐山さんのどちらとも、教室に戻ってはこなかった。

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