11

 睡蓮の部屋に入るのは初めてだった。

 階段を昇ると、「suiren」と書かれたプレートが備え付けられた焦げ茶色のドアが姿を現した。前を歩いていた睡蓮が振り向いて、「ここだよ」と言う。


「わたしは下でお茶を淹れてくるから、先に入っていてくれるか?」

「わかった。わざわざありがとうね」


 私の言葉に、睡蓮はそっと微笑むと階段を降りていった。彼女の背中が見えなくなって、私は言われた通りに睡蓮の部屋のドアを開ける。


 ――そこに広がっていたのは、どこか寂しげな印象を受ける部屋だった。


 家具は必要最低限しか置かれておらず、全体的に空白が目立っていた。部屋の奥の方にある小さな窓には数多の水滴が付着していて、入ってくる淡い外の光だけが暗い部屋を微かに照らしている。静かな雨の音を聞きながら、ぼんやりとそんな光景を眺めていた。


 座って待っていようかと思って、私は部屋のドアを閉じると少しずつ中へ踏み出した。足を動かす度に、冷たいフローリングの温度が靴下越しに伝わってくる。

 どこに座ろうか――そう考えながら、視線を彷徨わせた。クッションは置かれていなかったし、ベッドに腰を下ろすのも気が引ける。勉強机の側に椅子があったので、そこにしようと決めた。


 そっと座って、睡蓮のことを待つ。


 それにしても、随分と物がない部屋だと思った。私は片付けや整理整頓が余り得意ではなく、部屋を散らかしてしまいがちなので、尊敬の念を覚える。私はすぐ近くにある勉強机に視線を移した。置かれているのは、立てかけるように並べられた教科書やノート、小さな時計、透明の下敷き、暗い赤色の筆箱……


 ……暗い赤色の、筆箱。


 私はそこで、視線を移ろわせるのをやめる。それは睡蓮が学校で使っている、あの筆箱だった。


 ――銀色の輝きを思い出すのに、そう時間は掛からなかった。


 睡蓮はよく筆箱の中身を覗いている。じっと、じっと見つめている。私はもう気付いていた。


 ……気付けば私は導かれるかのように、彼女の筆箱に手を伸ばしていた。チャックに手を掛けたところで、水に墨汁を一滴垂らしたかのように、罪悪感がじんわりと心の中に広がっていく。この行動は間違いだろうと、冷静なもう一人の自分にささやかれる。けれど私の好奇心は、最早引き返すという選択肢を取ってはくれなかった。


 じじじという音が鳴り、少しずつチャックが開いていく。八割ほどを開けたところで、私はゆっくりとその中を覗いた。


 そこには確かに、あのとき見た銀色の輝きが埋もれている。


 シャープペンシルやボールペンを掻き分けるようにして、その色彩に手を伸ばした。それから、恐る恐る引き抜く。手に取ったそれの名称は、すっと脳内に浮かんできた。



 カッターナイフ――



 私は息を呑む。それはまさしく、カッターナイフだった。真っ黒の柄に覆われるようにして隠された銀色の刃が、鈍く暗い煌めきを放っている。私は呆然と、自分の右手にあるそれを見つめていた。これが、睡蓮の心を震わせているもの……?

 ふと、刃の辺りが汚れていることに気付く。何の汚れだろうか――そう思い、私は窓の近くに立つと、少しずつ刃を剥き出しにしていった。汚れの色には見覚えがあった。暗い赤色……それは彼女の筆箱の色で、そして、

 あの日猫の遺骸が垂らしていた色で。

 つまりそれは、

 血の、


「琴子」


 私は驚いて小さな悲鳴を上げる。

 恐る恐る振り向くと、そこには表情をなくした睡蓮が立っていた。


「……すい、れん」


 私の口から、彼女の名前が震えた響きで零れる。


「何をしているんだ?」

「……あ、その……ごめん、なさい」

「何をしているのかと聞いているんだよ」


 睡蓮の声は、怒っているというよりもずっと、哀しそうだった。

 質問に答えなければならない。


「私……ずっと、気になっていたの。睡蓮がよく、筆箱の中を見ているから。だから、一体何を見ていたんだろうって、思ってしまって……」

「それで、勝手に見たんだな」


 睡蓮の言葉に、私はどうしようもなく苦しくなる。その通りだ。私は睡蓮の秘密を、些細な興味で同意を得ることなく暴こうとした。それがいけないことだと、わかっていたはずなのに。


「返してくれるか?」


 睡蓮はそう言って、私の方へ右手を伸ばす。私は頷いて、カッターナイフの刃を仕舞うと、それを彼女に返そうとした。

 そのとき、だった。


 見えてしまった。

 彼女の着ているシャツの袖から、ちらりと白い、細い、傷跡のようなものが。


「……琴子? 返してくれよ」


 急かすように言う睡蓮の顔に視線を移した。そうすることで、睡蓮のことが大切だという気持ちが沸々と浮かんで、私は衝動に任せるように口を開いた。


「睡蓮はっ……このカッターナイフで、いつも、何をしているの」


 彼女の瞳が、揺らいだ。

 自分の心臓がうるさい。私はただ、睡蓮の答えを待った。

 止まない雨の音が窓の向こうから響いてくる。


「……大したことじゃない。ただ、時折、切っているだけだ」

「何を」

「何でもいいだろう」

「よくないよ!」


 思わず声を荒げてしまう。

 私はカッターナイフを部屋の隅に投げ捨てて、睡蓮の右手を両手で握った。

 目を見張った睡蓮の瞳はいつものように澄んでいて、けれど今はそれがどうしようもなく悲しくて。


「よくない……全然よくないよ。だって睡蓮、自分の手首を切っているんでしょう?」

「……だったら何だ」

「大切な友人が自分のことを傷付けていたら、悲しいに決まっているじゃない!」


 睡蓮が唇を噛む。

 それはとても、とても……哀しそうで。


「お願い……そんなこと、しないで。辛いなら、私が貴女を支えるから。だから、お願い……」


 彼女の手を握りしめながら、私はそう懇願した。

 睡蓮は俯く。長い前髪に隠されて、彼女の表情は見えそうになかった。


「……支えてくれるのか?」

「うん。前に言ったでしょう……私は、貴女の力になりたいんだよ」

「……そうか」


 それなら、と睡蓮は言う。


「今からわたしがすることも、君は許してくれるのか?」

「するって、何を……?」


 睡蓮は答えない。だから、私はまた口を開いた。


「……うん、許す」

「そうか」


 睡蓮はまだ、俯いたままだった。


「それなら……いいと言うまで、目を閉じていてほしい」

「目を? わかった」


 言われた通りに、目を閉じる。視界が閉ざされ、暗闇が広がった。


 ――一瞬、だった。


 唇に何か柔らかいものが触れたのがわかった。それは今まで生きてきて、一度も感じたことのない柔らかさで。

 何が起きたのかわからないままに、また唇に触れられて、湿り気を帯びた何かが口の中に入ってくる。睡蓮が漂わせている冷たい香りが、いつもよりずっと濃密に感じられた。水音が響いていて、ああ、私はようやく、少しずつ、今何が起こっているのかを理解していった。けれどにわかには信じられなくて、もしかするとこれは夢なのかもしれないなと、馬鹿げたことを心の中で考えていた。


「……いいよ」


 そう告げられて、私はゆっくりと目を開いた。

 ぼんやりと、睡蓮の瞳を見つめていた。

 二つの黒い円が段々と、透明に浸っていった。

 それが一筋零れて……ああ、私は初めて睡蓮が泣いているところを見たと、そう思った。


「……琴子、ごめん」


 彼女は涙を手で拭いながら、弱々しい声音で今日はもう帰って、と口にした。

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