09

 放課後、私は帰り支度をしていた。明日と明後日は休日だから、授業の復習をするために必要そうな教科書とノートを持って帰ろうと思ったのだ。

 睡蓮は早々と準備を終えて、私の隣で机にもたれかかりながらぼうっとしているようだった。ふわあ、と彼女が大きな欠伸をする。


『……できるだけ、眠らずに生きていたいから』


 以前言われたそんな言葉が脳裏をよぎって、私は少し不安を覚えた。

 振り払うように、机の中に入っている教科書を確認する。


「琴子」


 そのとき、睡蓮に声を掛けられた。


「ん、どうかした?」

「ちょっとお手洗いに行ってくる。すぐ戻るから、ここで待っていてくれると助かる」

「わかった。いってらっしゃい!」


 睡蓮は私に軽く手を振ると、急ぎ足で教室から出て行く。

 私は数学の教科書に視線を移して、持って帰るかどうかを思案し始めた。

 そこで、とん、と肩を叩かれる。

 睡蓮かと思って、何か伝え忘れたことがあるのだろうかと考えながら振り向いた。


 ……そこに立っていたのは、佐山さん、村瀬さん、篠倉さんの三人だった。


 自分の表情が強張ったのがわかった。

 佐山さんはいつものように、純真な笑顔を零す。


「寺嶋さん、ちょっと話があるんだけどいいかなー?」


 そう言われ、私は最早頷くことしかできなかった。




 佐山さんたちに連れてこられたのは、人気のない階段の踊り場だった。

 閉鎖されている屋上に繋がっているこの場所は、殆ど誰も来ることがない。

 今から、どんな話をされるのだろうか――そう思いながら、私は固唾を飲んで佐山さんの言葉を待った。

 佐山さんは自身の髪を弄びながら、くすっと笑う。


「寺嶋さんさ、あいつ……戸田と仲良いでしょー?」


 睡蓮の名前を口にされ、自分の呼吸が少し乱れたのがわかった。

 佐山さんの濁りきった黒い目が、私をじっと見つめている。


「……うん。睡蓮は、大切な友人だよ」

「やっぱそうだよねー! それでさあ、寺嶋さんにちょっとお願いしたいことがあるんだよねー」

「私に、お願いしたいこと……?」


 繰り返した私に、佐山さんは「そーそー」と頷いてみせた。

 それから制服のポケットに手を入れて、何かを取り出す。


「来週の月曜日にさ、戸田の上履きにこれ、入れといてくれない?」


 ――それは、透明なケースに入った、幾つもの黄金色に輝く画鋲だった。


 私は呆然として、佐山さんを、村瀬さんを、篠倉さんを、見た。彼女たちは真っ直ぐに私を見ていた。穴のような黒い目が六つ、並んでいた。

 冗談だと笑ってほしかった。そんな考えがよぎった自分を、もう一人の自分が嘲笑する。お前はまだ、この人たちが善人だと期待しているのか……?

 沈黙の中で、校庭から聞こえてくる楽しそうな声が耳障りだった。


 私はようやく、口を開く。


「……でき、ないよ。そんなことしたら、睡蓮が怪我してしまうもの。無理だよ……」


 か細い声で言った私に、佐山さんはぐっと顔を近付けた。


「甘いこと言ってんじゃねえよ。先に喧嘩売ってきたのは戸田の方だろ」

「睡蓮はっ……!」


 思わず、大きな声で叫んでしまう。

 私は泣いてしまいそうになりながら、そっと言葉を続けた。


「……睡蓮は、貴女たちに喧嘩を売った訳じゃないよ。ただ、やめてほしかっただけなの。虐めを、やめてほしかっただけなんだよ……」


 どうしたらこの人たちに、真っ直ぐな思いを伝えることができるのだろうか。

 睡蓮はただ、優しいだけだというのに。


「そんなのどうでもいいんだけど」


 佐山さんは苛立ったように、そう口にする。

 それから、つまらなさそうに伸びをした。


「まー、できないっていうならしょうがないか。話に付き合ってくれてありがとねー、寺嶋さん?」


 そう言って、佐山さんはふふっと笑う。

 ようやく解放されるのだと思い、身体から一気に力が抜けそうになったときだった。



「……なーんて、ここで終わる訳ないじゃん」



 佐山さんは可笑しそうに、そう言った。

 そうして、制服のポケットから何かを取り出す。それは……鋏、だった。銀色の刃が、窓から差し込む淡いオレンジ色を帯びた光に照らされ、きらりと輝いていた。

 危害を加えられる――その事実にようやく思い至って、私はひゅうと息を吸った。逃げ出さなければと思うのに、自分の足が動こうとする気配はない。役立たず、と心の中で罵った。

 佐山さんは鋏を見つめながら、口を開く。


郁枝いくえみやこ……ちょっとこいつのこと押さえてもらっててもいい?」


 村瀬さんが気怠そうな声で「ん、いいよ」と言う。

 篠倉さんが冷めた表情を浮かべて「わかった」と言う。

 二人が近付いてくるのに、私は何もできない。心の中でただ、睡蓮の名前を呼んだ。縋ることしかできない自分に嫌気がさした。けれどそれよりもずっと……怖かった。


「寺嶋さんってさあ、髪長いよね?」


 そう、佐山さんが言う。

 編んでいた右の髪を村瀬さんが解く。編んでいた左の髪を篠倉さんが解く。

 だから私は、これから何が行われるのかわかってしまう。


「い、嫌……やめて。お願い、やめて!」


 駄々をこねる子どものように、私は懇願した。

 佐山さんは鋏を持ちながら、くすりと笑って歩き出す。


「さっきのお願い聞いてくれんなら、やめてあげてもいいけど?」


 少しだけ、それができないか考えてしまった。

 そんな自分が弱くて嫌いで、その考えを掻き消すかのように私は首を横に振る。


「それはできないよ……だって睡蓮は、」


 鋏が自分の髪に触れたのが、わかった。

 私は滲んでいく視界の中で、馬鹿みたいに微笑んでいた。



「……睡蓮は私の、最愛の友人だもの」



 目を閉じる。

 頬に、涙が零れていった気がする。

 鋏の音だけがただ、残酷に響いている。




 ……ずっと、泣いていた。

 そうしていると、涙の本質的な理由がよくわからなくなってくる。随分と軽くなってしまった髪、睡蓮に向けられていた悪意、言葉が伝わらないことへの恐怖――ああ、多分そういう全部が、私を悲しくさせているのだろう。


「こと、こ……?」


 声がして、私は身体と足の隙間に埋めていた顔を上げた。

 睡蓮の姿を見るだけで、どうしようもなく安堵してしまって、また大粒の涙が溢れた。


「琴子!」


 睡蓮はとても大きな声を出して、私に駆け寄った。視界は歪んでいるけれど、彼女が本当に悲しそうな顔をしているのがわかって、辛くなった。


「そんな……嘘だろう……もしかして、佐山たちにやられたのか……?」


 嗚咽が漏れてしまって言葉を紡ぐことができそうにないから、私はそっと頷いた。


「……ごめん、」


 睡蓮の声は、石を投げ込まれた水面のように震えている。


「ごめん……琴子、本当に、ごめん。ごめん、ごめん、ごめん…………」


 睡蓮は私の手を握って、何度も何度も謝罪を繰り返した。

 ああ、睡蓮の手はやっぱり……温かかった。

 優しい、温度だった。

 ようやく、少しだけ喋れるようになる。


「そんなに、謝らないで……睡蓮は、何も、悪くないじゃない」


 睡蓮は目を見張って、それから強く首を横に振る。

 やがて彼女は、ぽつりと言った。


「…………さなきゃ」

「え?」


 しっかりと聞き取れなくて、尋ね返してしまう。

 けれど睡蓮はもうそれを言うことなく、また“ごめん”の三文字を繰り返すのだった。

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