08
翌日、私は次の授業の準備をしながら、ちらりと隣の席に座る睡蓮の様子を窺った。
彼女はいつかのように、じっと自分の筆箱を見つめている。チャックは開いていて、中にある何かを覗いているように感じられた。果たしてそこに何が入っているのかはわからなくて、私はただ、昨日筆記用具の隙間から見えた銀色の輝きを思い出していた。
――そのとき、だった。
「国府田、何書いてんのー?」
明るくて、それなのに残酷に聞こえる声が、教室に響き渡る。
私は声のした方を見た。佐山さんが、自分の机に座っている国府田さんに向かって話し掛けている。佐山さんのピンクベージュに染まった髪と、国府田さんの重たさを感じる黒の長髪が、やけに対照的に見えた。
私の席からは、国府田さんの表情はわからなかった。私は緊張しながら、国府田さんがどんな言葉を返すかに耳を澄ませる。
「……授業の内容を纏めているだけですよ」
国府田さんは、そうやって答えた。彼女は虐めを受け始めた頃から、誰に対しても敬語で接するようになった。一学期は、そんな他人行儀な話し方などしていなかったはずなのに。その事実に、胸が痛くなる。
きゃはは、と佐山さんが嗤う。
「真面目ちゃんだねー! ちょっと見せてよ、そのノート」
そう言って、佐山さんは国府田さんのノートを奪い取った。
国府田さんは一瞬硬直した後で、ばっと立ち上がる。
「返してくれますか?」
「えー、どうしよっかなー」
佐山さんはにやにや笑いながら、国府田さんのノートを手で弄ぶ。
「じゃあ、そこに土下座してみてよ。そしたら返してあげよっかなー」
埃っぽい床を示しながら、佐山さんは酷い提案をした。
国府田さんは、そんな佐山さんのことを見据えているようだった。
「お断りします。さっさと返してください」
そう言って、国府田さんは佐山さんに近付いて肩を掴むと、自分のノートを取り返そうとする。
そのとき、佐山さんの目が獰猛な輝きを孕んだ。
佐山さんは国府田さんの腹を蹴り付ける。国府田さんは倒れ込んで、幾つもの机にぶつかって鈍い音が響いた。容易く行われた暴力に、私は思わず目を逸らしてしまう。
「汚い手で肩掴むんじゃねえよ、国府田」
痛そうに目を細めている国府田さんに、佐山さんはゆっくりと近付いていく。
そうして佐山さんは、自分の腕を振り上げた。
「やめなよ」
凛とした声が、響いた。
すぐにわかった……それは間違いなく、睡蓮の声だった。
私はばっと隣を見る。立ち上がっていた睡蓮と、一瞬だけ目が合ったように思った。長い睫毛の下で覗く黒い瞳は、確かな信念に染まっているように感じられて。
佐山さんは国府田さんを殴ろうとしていた手を下ろして、睡蓮の方に向き直った。ああ、佐山さんの目も黒色だったけれど、途方もなく濁っているように見える。睡蓮の黒は、あんなにも澄んでいるのに……
先に口を開いたのは、睡蓮だった。
「どんな理由があっても、人を虐めてはいけないよ。お願いだから、もうやめてくれ」
懇願するように、睡蓮は言った。それはどこか、何か辛いことを思い出しているかのような、苦しげな響きをしていて。
けれど佐山さんは、忌々しげに睡蓮を睨んでいた。睡蓮の言葉は、きっと何一つ彼女には響いていないのだろうと、そう直感せざるを得なかった。
「……口挟んでくるんじゃねえよ。何の事情も知らない部外者のくせに」
「クラスメイトという時点で、わたしは関係者だ。いや……わたしたち、と言うべきか」
睡蓮はそう言って、教室にいる皆を見渡すように視線を動かす。
それからまた、佐山さんを見据えた。
「確かに、君と国府田さんの間に何があったのかは知らない。でも、今この教室が置かれている状況は、どう考えても間違っているんだ。……どうか、頼む」
睡蓮はいつかのように、頭を下げる。
佐山さんは少しの沈黙の後で、大きな舌打ちをすると教室から出て行った。
静かになった教室は、少しずつ喧騒を取り戻していく。
睡蓮が椅子に座ったのがわかって、私はとんとんと彼女の肩を叩いた。
それから、睡蓮に微笑みかける。
「ありがとう、睡蓮」
私の言葉に、睡蓮は微睡みのように優しく笑った。
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