04

 今日は、随分と早く目が覚めてしまった。

 駅のホームで電車を待ちながら、私は目を擦る。次に来る電車は、いつも乗っているものより三十分ほど早かった。


 ――間もなく、二番線に電車が参ります……危ないですので、黄色い線の内側までお下がりください……


 アナウンスを聞きながら、私は昨日睡蓮と交わした会話を思い出していた。


『わたしはこの世界から、虐めを一つ残らずなくしたいと思っているんだ』


 そんな睡蓮の言葉が、頭の中に響き渡る。


 睡蓮はそれを「崇高な理想」と言っていて、まさしくその通りだと思った。けれど睡蓮はそれを本気で願い、本気で考えている。何か、私に手伝えることはないだろうか? 大切な友人が困っているのなら、力になりたかった。


 昨晩もそのことについて悩み、眠りが浅くなってしまった。衝動に任せるように大きな欠伸をし終えた頃、ホームに電車が到着した。ドアがゆっくりと開き、私は電車に乗り込む。


 車内はそこまで混雑していなかったが、座席は全て埋まっているようだった。私はドアの側に立ちながら、肩に掛けていた通学鞄を抱きかかえるように持つ。


 電車はすぐに発車して、車内が淡く揺れ始める。何となく、座席の方に目をやった。そして、少し遠くに睡蓮が座っていることに気付いた。私は驚いて目を見張る。睡蓮の登校時間が自分より早いのは知っていたが、普段からこんなに朝の電車に乗っているのだろうか? そう考えながら、睡蓮を見つめる。


 彼女は私の存在に気付いていないようだった。真っ黒な本を持って、それを凝視するように読んでいる。その表情が真剣なのが、私の位置からでもわかった。一体、何の本を読んでいるのだろう?

 睡蓮は私の小説を読んでくれているし、本人の口から聞いたことはなかったが、もしかすると読書家なのかもしれない。そんな推測が頭をよぎって、寂しさが沸々と湧き上がってくる。それは多分、独占欲に似た何かなのだろう。私の小説の読者は睡蓮だけだけれど、睡蓮が好きな小説は山ほどあるのかもしれないということに、悔しくなってしまっているのだ。


 暗い気持ちを振り払うように、目を閉じて別のことを考える。そういえば今日の英語の授業で、英単語の小テストがあるのだった。昨晩に一通り目を通しはしたが、心配になってきて鞄から英単語帳を取り出す。幾つも並ぶ英単語を見ていると、気が紛れていくように思った。




 ――次は苫嶺、苫嶺……


 電車のアナウンスで、意識が現実に引き戻される。私はいそいそと英単語帳を鞄に仕舞うと、思い出したように睡蓮の方を見た。彼女は今も、真っ黒な本に釘付けになっているようだった。少しの間忘れていた寂しさが、再び私の心の中に生まれる。私はそっと、唇を噛んだ。


 もうすぐ苫嶺駅に到着するという頃になって、睡蓮は本を閉じると鞄に仕舞った。やがて電車は駅に着き、私は人の隙間を縫うようにホームへと降りる。睡蓮は歩くのが速くて、後ろ姿がどんどんと遠ざかってしまいそうになった。私は慌てて駆け出す。


「睡蓮!」


 改札を出たところで、大きな声を出した。睡蓮はばっと振り向いて、私の方を見る。流された黒い前髪が、さらりと揺れた。


「……琴子か。驚いた、今日は早いな」

「ちょっと、早起きしちゃって」


 私たちは並んで、駅の階段を昇り始めた。体力のない私はすぐに息が上がってしまうのだけれど、睡蓮は平然としながら進んでいる。……彼女はいつもそうだった。体育の授業で持久走があったときも、少しも辛そうな様子を見せずに淡々と走り終えていた。睡蓮のそういうところは、私を微かに不安にさせた。まるで乱れない呼吸は一見健康のようなのに、何故か死を連想させる。


 


 春に猫の幽霊と話していたような、睡蓮に備わっている不思議な力も、私のそんな思いに拍車をかけた。

 ふと、梅雨の頃に起きた出来事を思い出す。二人で少し遠くの町に出掛けたとき、映画館に行くのに彼女は遠回りをした。通るはずの大きな交差点が見えてきたとき、わざわざ別の道を選んだのだ。それから何週間か経って、私はもう一度その町に訪れる機会があった。何の気なしにその交差点を通ったとき、供えられている花束に気付いた。調べてみると、そこではかつて何人もの子どもが轢かれた痛ましい交通事故があったという。

 後日、私は睡蓮に尋ねた。『あの交差点を通ろうとしなかったのは、昔に起きた事故が怖かったから?』睡蓮は数回瞬きすると、首を横に振って言った。『いや、それは知らなかったけど……ただ、あの場所が恐ろしく感じたんだよ』黒い瞳は、虚ろだった。


「琴子、どうかしたのか?」


 睡蓮に話し掛けられて、私ははっとなる。

 彼女は少し眉を顰めながら、私の方を見ていた。私はすぐに口を開く。


「いや、何でもないよ」

「そうなのか? 何か考えているようだったから」


 聡いな、と思う。でも、先程まで頭に思い浮かべていたことを話す気にもなれず、私は別の話題を出そうとした。最初に思い浮かんだのは、昨日打ち明けられた虐めに関する話で、けれどこのことは今ではなく、もっとゆっくり話せるときがいいような気がした。

 そうして私は、電車での光景を思い出す。聞きたくないような気もしたけれど、結局聞かずにはいられなかった。


「……本当に何でもないの。それはそうと、睡蓮、さっき電車で何か読んでなかった?」


 すぐに言葉が返ってくると思っていた。けれど、私たちの間には確かな沈黙が漂った。不安になって、睡蓮の方を見る。

 彼女の表情が滲ませる感情がすぐにはわからなくて、見つめてしまった。それでようやく、その感情が「後悔」に似たものだと思い至った。でも、何故後悔しているのだろう……? 疑問を持つのと同時に、睡蓮がようやく口を開いた。


「……別に、大した本じゃないよ」


 その言葉は恐らく、拒絶に近いものだった。彼女はこの話をしたくないのだろうと、何となくわかった。半年も親しくしていれば、そのくらいは感じ取れる。

 けれど私は、この話題をここで終わらせたくなかった。やっぱり、寂しいのだ。あんなにも真剣な表情で睡蓮に読まれていた本が、どうしても気になってしまう。

 重々しくならないように、明るい口調を意識して尋ねる。


「それって、もしかして小説とか? 睡蓮に読書家なイメージはあんまりなかったから、意外かも! 私も読んでみたいな」


 読んでみたいとは思っていないのに、そう口にしている自分が嫌になる。

 睡蓮の次の言葉を待つ間、緊張してしまった。


「……こんな本、琴子は読まなくていいよ。楽しいものではないから」


 彼女の横顔は、嘘などついているとは思えないほどに、苦々しさを帯びていて。

 けれど私は、その事実にどうしようもないほど安堵してしまった。


「そっか。聞いちゃってごめんね、なんか」

「いや、気にしないでくれ。わたしこそ、冷たい言い方になってしまって悪かった」

「ううん、大丈夫! そうだ、話は変わるんだけれど、うちの近くのカフェで新しいケーキが販売し始めて」

「本当か? 琴子は甘いものが好きだもんな」

「そうそう! すごく気になってて……」


 そんな話をしながら、私は思う。


 睡蓮があの本のことを褒めなくて、よかった。

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