03
睡蓮と初めて出会ったのは、苫嶺高校の入学式の日だった。
「
そうして自分の席に座ろうとしたとき、思わず目を奪われた。
それは睡蓮が、とても美しかったから。今よりもずっと長かった髪を高い位置で結わいて、唇をすっと引き結びながら、背筋を伸ばして私の後ろの席に座っていた。過ぎ去った冬の雪を閉じ込めたような白い肌に、形のいい切れ長の黒い瞳。
こんなに綺麗な女性がいるんだと、感銘を受けた。頬に傷跡の残った自分の顔がコンプレックスなこともあり、羨ましくも感じたことを記憶している。
ただ、自分が内向的な性格だったからか、睡蓮に話し掛けようとまでは思えなかった。だから出会いの日と言葉を交わした日は別で、後者のことも私はよく覚えている。
入学式から、一週間ほど経った日のことだったと思う。
花の香りが水に溶け出すような、春の雨が降っている日だった。自分には少しばかり大きいビニール傘をさしながら、私は放課後の道を歩いていた。
透明なビニールに付いた幾つもの丸っこい雫を眺めながら、重い溜め息をつく。授業が始まって、クラスメイトは段々と友人を増やし始めているのに、私には友人が一人もできる兆しがなかった。その頃の私には、誰かに声を掛けることがとても難しかったのだ。小学校や中学校のときは、いい人間関係を築くことなど人並みにできたはずなのに。
そのとき私の頭の中に、一人のクラスメイトの姿が思い浮かぶ。睡蓮だった。彼女は端正な容貌からか、多くのクラスメイトに話し掛けられていた。けれど彼女の返答はいつも素っ気なく、会話はきまって盛り上がらない。
やがて睡蓮に絡もうとする人はいなくなり、彼女は私と同じように一人ぼっちの高校生活を送っていた。もっとも、睡蓮が意図的に友人をつくろうとしていないのに対して、私は友人が欲しいと思いながらもできていないのだから、惨めさみたいなものは違うのだろうけれど。
睡蓮と仲良くなれないだろうか、という考えが私の頭に浮かんだ。一瞬だけ視界が煌めいた気がして、でもすぐにどんよりとした景色に戻った。なれる訳がないだろう、と思った。取り立てて魅力のない自分が、どうしたら睡蓮に一人だけ認めてもらえるのか? 私は曲がり角を歩きながら、睡蓮のことを思うのをやめて、明日こそ隣の席の女の子に声を掛けてみようかと、そういう考えを巡らせ始めた。
――そのとき、だった。
少し遠くに立っているのは、間違いなくあの睡蓮だった。傘をさすこともせずに、びしょびしょになりながら、どこか上の方を見て立ち尽くしていた。長い黒髪は濡れて、一段と艶やかさを増している。私は驚きながら、睡蓮を見つめていた。
睡蓮の唇が動いていることに気付いた。耳を澄ませると、彼女が何やら独り言を呟いているのがわかった。一体何を話しているのだろう……? 疑問に思った私は、止まっていた足を動かして、少しずつ彼女へと近付いていくことにした。段々と、言葉の輪郭がはっきりしてくる。
「わかるよ」「寂しいよな」「もっと生きていたかった?」「そうだろうな」「どうして死は避けられないのかな」「気味が悪い世界だよ」「本当に」「気味が悪い」「愛されたかった?」「そうか」「それが仮初めでも?」「うん」「健気だね」「本物の愛なんてあるのかな」「へえ」「あると思うんだ」「そうだといいな」「本当に」「そうだったらいい」「ふふ、ふ、ふ」
……睡蓮は笑っていた。教室ではいつも無愛想な顔をしてばかりいる彼女が、まるで子どものように屈託なく、笑っていたのだ。ああ、雨に濡れたその笑顔はどうしようもなく綺麗だった。私は初めて見る睡蓮の表情に、見惚れていたのだと思う。
少しして、私は我に返ったように目を見開く。今も睡蓮は独り言を続けていた……いや、本当はもっと前に気付いていた。彼女は一人で喋っているのではない、誰かと喋っているのだ。でも、誰と……? 疑問に思うと同時に、私はようやく睡蓮の足元を見た。
最初に目に留まったのは、赤黒い液体だった。
透明な雨の世界で異彩を放つそれは、鮮やかながら毒々しかった。その液体の出どころは、首のない猫の遺骸だった。身体だけが妙に健康的で、それがより一層生々しく命の終わりを感じさせた。
私は小さな悲鳴を上げてしまう。そうしてようやく、睡蓮は私の存在に気付いたのだった。彼女は最初に、しまった、というような顔をした。それからすぐに目を細めて、私を睨み付けるように見据えた。
私の口からぽろっと、疑問の言葉が漏れる。
「どういう、ことなの?」
睡蓮はまだ、警戒心の滲んだ目で私を見ていた。
「戸田さんは……死んだ猫と、話していたの?」
声が震えてしまう自分の不甲斐なさが嫌だった。睡蓮はようやく、先程までと同じように口を開いてくれた。
「……そうだけど。でもそれは、君には関係ないだろう」
睡蓮の言葉はもっともだった。このときの私と睡蓮は友人でも何でもなく、ただ席が前後というだけのクラスメイトだったから。
ここで踵を返してしまえば、私と睡蓮の関係は何も始まらなかっただろう。けれど私の頭には、睡蓮が雨の中で零していた言葉が巡っていた。それらは決して暴力的ではなく、むしろ温かいものだったように感じられた。
だから、私はこれでやり取りを終わらせるのが嫌で、気付けばまた声を発していた。
「貴女はどうして、この猫と話していたの?」
「何で君に理由を話さなくてはならないんだ?」
「知りたいから、だよ。お願い……それだけでいいから、教えてほしいの」
睡蓮は少しの間逡巡する素振りを見せてから、観念したように言った。
「……この子がひとりで、寂しそうだったからだ」
彼女は、哀愁の滲んだ眼差しをしていた。
その言葉と表情は、私に睡蓮が思いやりのある人なのだと気付かせるのに充分だった。
私は思わず、睡蓮の手を握る。彼女は驚いたように私を見ていた。私は、無意識のうちに微笑んでいた。
「すごく、優しいんだね」
睡蓮は目を見張る。それから、哀しそうに眉を顰めた。
「……気持ち悪くないのか?」
「何が?」
「わたしは……この世のものではないものと、会話をしていたんだぞ」
私は、ぱちぱちと瞬きをする。
それから、首を横に振ってみせた。
「気持ち悪くなんてないよ。勿論、少しは怖かったけれど……でも、それよりずっと、素敵だなって思った」
「素敵?」
「うん。私、お話を書くのが好きなんだ。だから今みたいな不思議なことに、憧れがあるの」
どうしてか睡蓮の前だと、素直な自分の気持ちを口にできた。
睡蓮は目を丸くしてから、ふっと笑う。それはどこか呆れているようで、そして安堵しているようでもあった。
「……寺嶋さんは、変な人だな」
名前を覚えていてくれたことが、嬉しかった。
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