02
樹々が少しずつ赤さを増していくのが、秋の象徴のように感じられた。
私は放課後の帰り道を、睡蓮と並んで歩いていた。ずっしりとした疲労感が全身を包んでいる。一学期の頃よりも、高校生活を送ることで疲れるようになってしまった。その原因は間違いなく、変わってしまった教室の有り様だろう。何もできずにいる私でさえこうなのだから、国府田さんはきっととても辛いと思う。自分の無力さに、嫌気がさした。
「ねえ、琴子」
睡蓮に話し掛けられて、私の意識は現実に引き戻される。
「何、睡蓮?」
「前話していた小説、続きは書けたのか?」
「ああ、そのことね」
私は微かに照れたようになりながら、相槌を打つ。
幼い頃から考え事をするのが好きで、だからか小説を書くようになった。今はまだ短めのお話を完成させるので精一杯だけれど、いつかは書店で文庫本として売られているような、長いお話をつくり上げたいと思っている。
そうして、自分の物語が本の形となって、見知らぬ誰かに届いたら――それは矮小な自分が抱いている、大きな夢だった。
「今、半分くらいまで書けたかな。後半の部分が特に描きたいシーンだったから、これから書けると思うとわくわくするの」
「へえ、いいじゃないか。よければまた読ませてくれないか?」
「うん、勿論! むしろ、こっちからお願いしたいくらい。私、睡蓮から貰える感想が大好きなの」
睡蓮の表情はいつものように優しかった。でも一瞬だけ、淡く哀しさが混ざった気がした。この人はよくこういう顔をする。
「そうか、嬉しいよ。わたしも、琴子の小説が大好きだから」
その言葉に、私はどうしようもなく嬉しくなってしまって、思わずにやけそうになる。それを抑えながら、ふと浮かんだ疑問を尋ねてみた。
「ありがとう、睡蓮。そういえば気になっていたんだけれど、どうして貴女はさ、私の小説を気に入ってくれているの……? その、欲しがりになっちゃっている気もするんだけれど、よければ聞きたくて」
自分の心臓が強く脈打っているのが感じられた。睡蓮は顎に手を添えながら、少しの間悩むような素振りを見せる。彼女の横顔は、どこかの彫刻のように整っていた。
やがて、睡蓮が口を開く。
「琴子の小説にはよく、誰かを愛したり、誰かに愛されたりといった出来事が描かれるだろう?」
「言われてみれば、そうだね」
余り自分では意識していなかったけれど、思い返すとそうだった。
小説を書くとき、気付けば愛の話をしてしまう。
「琴子の描く愛は……何というかとても、無垢なものなんだ。色で例えるとすれば真っ白な、怖いほどに真っ直ぐなもの。わたしにはそれが、眩しいくらいに綺麗で……だから、好きなんだと思うよ。そういう愛はわたしの中にはないし、描くことも決してできないだろうから」
睡蓮はどこか遠くを見ていた。いつもの淡々とした語り口調だったけれど、どこか寂しそうなのがわかった。
「そうかな……ありがとう、嬉しい。自分では、よくわからないんだけれど」
「わからなくてもいいんじゃないか。琴子の愛はきっと、正しいよ」
琴子の、という言葉が何だか気に掛かった。
私は呟くように質問していた。
「……睡蓮の愛は?」
「え?」
「睡蓮の愛は、正しくないの?」
ぴたりと、睡蓮が足を止める。秋風が吹いて、睡蓮の真っ黒な髪と制服のスカーフがさらさらと揺れた。目と目が合う。私の瞳は睡蓮の姿を映し出しているはずなのに、彼女の心の内はまるで見えそうにない。すぐにわかることができたら、どれほどいいだろうか。
睡蓮は、何かを諦めるように口角を上げた。
「そうだね。わたしの愛は間違っていると思うよ」
「何で? それがどんな形であろうと、そういう尊い気持ちに正しさも過ちもないんじゃないかな」
「へえ、琴子はそう思うんだ。でもね、わたしの愛は、少しも綺麗なものじゃないから。君の小説とは正反対だよ、真っ黒なの。とても、汚いよ」
睡蓮はどこか忌々しげに言うと、再び歩き始める。私は遅れないように、彼女に合わせて一歩を踏み出した。
そのときパズルのピースが嵌まったかのように、私は気付く。睡蓮が抱えているであろう悩みには、このことが関連しているのではないだろうか? 今なら、会話の流れで聞いてしまえる――そう思った私は、勢いに任せて口を開いた。
「睡蓮が最近悩んでいることって、そのこと?」
睡蓮が目を見張る。私はたどたどしい口調になりながら、言葉を続けた。
「その……九月になってから、貴女が何か悩んでいるように見えて。それは、今話したみたいな愛のこと? それとも、国府田さんに対する虐めのこと? ……聞いていいか、ずっと考えていたの。半年の付き合いで、そこまで踏み込んでいいのかわからなくて。でもやっぱり、心配で。だから、もしよければ相談してくれないかな? 私、睡蓮の力になりたい」
睡蓮はほのかに驚いたように、私の提案を聞いていた。
それから、ふっと口元を緩める。
「気付いていたんだな」
「そうだよ……友人なんだから、それくらいわかるもの」
「そうか。……じゃあ、少しだけ話すよ」
そう言って、睡蓮はどこか苦しげに目を細めた。
「簡単に言えば、崇高な理想に雁字搦めになっている。それだけの話だよ」
「崇高な理想……?」
「ああ。わたしはこの世界から、虐めを一つ残らずなくしたいと思っているんだ」
睡蓮の言葉をくっきりと理解するのに、少し時間を要してしまう。
世界から、虐めを一つ残らず、なくす――
「虐めって……今私たちのクラスにあるような、ああいう?」
「そう。わたしはそれを、全て消し去りたい。終わらせたい」
私は驚きながら、睡蓮を見つめていた。
彼女の瞳は、確かな真剣さを孕んでいる。だからきっと、これは生半可な覚悟で言っているのではなく、本気で願っているのだろう。
でも……それはどれだけ、難しい願いだろうか。
現に私たちは、自分の教室で起こっている一つの虐めさえ、終わらせることができていないのだ。
何も言うことができずにいる私に、睡蓮はそっと微笑む。
「一つだけ、方法は思い付いているんだ」
「え……あるの、方法?」
「うん、あるよ。琴子には内緒だけど」
内緒。そうやって線引きをされてしまえば、私は容易にそこに踏み込めなくなる。
それは一体、どんな方法なのだろうか。私には到底思い付きそうもなくて、だからただ、恐ろしい手段でないのを祈ることしかできなかった。
「でもこれは、余り取りたくない方法なんだ。だからもっと別のいい方法がないか、ずっと考えている。そういう悩みだよ」
「……そっか。でも、こういう表現が正しいのかわからないけれど、睡蓮は偉いね」
「偉い?」
怪訝そうに繰り返した睡蓮に、私は柔らかく笑いかけた。
「うん。だって、そういうことについて本気で悩めるのは、優しいもの。大体の人は……私もそうだけれど、自分のことで精一杯だから。そういう大きなことを真剣に考えている睡蓮は、すごく偉いと思う」
心から、そう感じていた。
そして、そんな睡蓮が自分のことを友人と思ってくれていることが、嬉しかった。
睡蓮の横顔は私と同じように幸せそうで、でもやっぱりどこか哀しげだった。
「別に偉くなんてないよ。……わたしはただ、許せなかっただけだから」
そう言うと、睡蓮は通学鞄から定期入れを取り出す。
見れば、駅がすぐそこに迫っていた。
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