一章 睡蓮の理想
01
季節には、香りがあるように思う。
自室で高校の制服に着替えながら、そういうことを考えていた。世界からはすっかり夏の気配が抜けて、どこか湿り気のある秋の匂いが漂っていた。
私はこの匂いが余り好きではなかった。どうしてか、うっすら怖く感じるのだ。もしかするとそれは、寒さの厳しい冬が訪れる前触れだからなのかもしれなかった。
灰色を基調とした長袖のセーラー服に身を包んで、私は頷いた。時計を見れば、家を出なければいけない時間が少しずつ迫っている。さっさと髪を整えてしまおうと思い、私は部屋を出て洗面所へと向かった。
鏡に映し出された胸から上までの自分の姿を見て、ふうと溜め息をつく。私は自分の顔がそこまで好きではなかった。大きくも小さくもない目、やや低めの鼻、小ぶりな唇――顔立ち自体は平凡なのだけれど、右目の下の頬の辺りに薄く、真っ白な線のようなものが走っている。
それは恐らく傷跡だった。いつ、どこで付いた傷なのかは、もう覚えていない。ただ顔立ちに目立った特徴がないからこそ、この線はやけに存在感を放っていて、目障りに感じられるのだった。
自分の顔を意識しないようにしながら、茶色がかった長髪を櫛で梳かす。慣れた手付きで二つに分けて編むと、早々に洗面所を後にした。
通学鞄を肩に掛けて、玄関でローファーを履く。両親は共働きで、既に家には私以外の人間はいなかったけれど、私はいつものように何となく呟いた。
「……行ってきます」
◇
私が通っている高校――
外から見れば、穢れのない学校に見えるな――そう考えながら、私はコンクリートで舗装された中庭を歩いていた。
もう少しで昇降口に辿り着きそうな頃、とん、と肩を叩かれる。
驚いて振り返ると、そこには睡蓮が立っていた。
ウルフカットにされた烏の濡れ羽色の髪と、整った形をした切れ長の黒い瞳。すらりと背が高く、皆と同じ制服を身に付けているはずなのに、随分と洗練されて見える。夜明けを想わせる綺麗な微笑みで、彼女は私を見つめていた。
淡い色合いの唇が、そっと開かれる。
「おはよう、琴子」
声の響きは女性にしてはやや低くて、でもとても聞き心地がいい。
気付けば私は、微笑み返していた。
「おはよう、睡蓮」
私たちはどちらからともなく、並んで歩き出す。
「睡蓮がこの時間に登校なんて、珍しいね。いつももっと早く来ていない?」
「ああ、そうだな……実は今日、目覚ましをかけ忘れてしまっていたんだ」
「ええっ、そうだったの? 逆に考えるとさ、それでよく始業時間に間に合ったね」
私の言葉に、睡蓮は気恥ずかしそうに少しだけ眉を顰めた。
「母さんが起こしてくれたんだよ。それがなかったら、今もベッドで眠っていたかもな」
「そっか。そう考えると、お母さんには感謝してもし切れないね」
「そうだな……できるだけ、眠らずに生きていたいから」
「…………? どうして?」
首を傾げた私に、睡蓮はとても柔らかく微笑む。
「考えていたいことがあるから」
その微笑みを見ていると、私はほのかに不安な気持ちになった。
二学期が始まった頃から、睡蓮が何か思い悩んでいるように感じられるのだ。その理由を知りたいと思いながら、中々聞くことができずにいる。
私は睡蓮のことがとても大切だから、困っていることがあるとすれば力になりたいけれど、知り合ってからまだ半年ほどしか経っていないし、そこまで踏み込んでいいのかまだわからない。
もやもやとしているうちに、私と睡蓮は昇降口に到着した。「一―三」というクラス表示を見ると、私たちの教室が抱えている問題を思い出して、嫌な気持ちになる。
幼い頃に思い描いていた高校生活は、もっと煌めいて単純なものだったのになと、上履きに履き替えながら考えていた。
◇
教室には学習机が整然と並べられていた。殆どの机はぱっと見分けがつかないくらい一様な見た目なのに、この教室には一つだけ異様な机がある。
真っ黒の文字で書かれた見るに耐えない罵詈雑言と、花瓶に生けられた人骨のように真っ白な花。
佐山さんの笑顔が怖かった。だって一学期の頃は、国府田さんと佐山さんは仲のいい友人同士だったはずだから。二学期が訪れると、平和だった教室は一転して居心地の悪い場所になってしまった。クラスには国府田さんと話してはいけないという空気と、夏休みに彼女たちの間に起こった何かに対する様々な噂が流れていた。他校の男子絡みで揉めただとか、国府田さんが佐山さんを否定するようなことを言っただとか。
本当に何があったのかはわからなくて、私を含む多くの人間は行われている虐めを傍観することしかできなかった。下手に関われば、自分や睡蓮が標的にされるかもしれない――そんな恐れが、私の中で燻っている。
教師たちは虐めに気付いているのだろうけれど、特に何かをしてくれる訳ではなかった。もう高校生なのだから自分たちで解決してくれ、と考えているのかもしれない。悲しかったけれど、しょうがないような気もした。
ふと、隣の席に座っている睡蓮を見た。彼女は太腿の辺りに手を置きながら、じっと黒板の方を見据えている。その横顔は確かな冷たさを孕んでいて、普段私に向ける表情とは全くと言っていいほど異なっている気がした。
目を離せないでいる私の視線に気付いたようで、睡蓮がふっとこちらを見た。氷が少しずつ溶けていくときのように、彼女は表情を緩めていく。私も同じように微笑んだ。そうしながら、睡蓮が何かに悩んでいるのだという推測がより強まった。
やはり、この教室の現状についてだろうか。
それとも、もっと別のことなのだろうか?
臆病な私は、今それを尋ねることができそうになかった。どうすればいいのだろうかと考えていると、教室の扉が開いて国府田さんが入ってくる。教室の緊張感が、一段と増した気がした。
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