睡蓮、願わくは永遠に

汐海有真(白木犀)

プロローグ

プロローグ

 ――時折、あの日のことを思い出す。


 それは決して、思い出そうと心掛けている訳ではない。砂浜に波が打ち寄せるかのように、脳裏にふっと浮かんでくるのだ。


 その記憶は、私の最愛の友人――戸田睡蓮とだすいれんとの、些細な日常の一ページだ。段々と暑さが増してきた、初夏の頃の出来事だったように思う。


 私と睡蓮の通う高校から少し離れたところにある、美しい樹々が印象的な自然公園の中で、寂れたベンチに並んで座っていた。生い茂る葉の隙間から夕陽が差し込んで、芝生は儚げな橙色に染め上げられていた。


 そんな綺麗な世界で、私は泣いている。目からとめどなく溢れてしまう涙を、手で拭うこともせずぼろぼろと零している。


 そのとき私がどうして泣いていたのかは、忘れてしまった。きっと、とても悲しいことがあったのだろう。そうでなければ大切な友人の前で泣きじゃくることなど、恥ずかしくてできないと思うから。


 滲んだ視界で、私はふと温もりを感じる。鼻孔をくすぐったのは、いつも睡蓮が漂わせている不思議ないい香りだった。その香りはどこかひんやりとしていて、優しくて、まるで安らかな死のようだと思った。


 睡蓮は私を抱きしめていた。彼女の華奢な肉体が、慈しむように私を包み込んでいる。それに気付いた私は、叫ぶように大声を上げて泣いた。許されたように思ったのだ。感情を露出させることを認められたように感じて、どうしようもなく安堵したのだ。


 睡蓮は、私の耳元でささやいた。


琴子ことこ、大丈夫だよ……もう、大丈夫だから」


 その言葉に、私はどのような返答をしたのだろうか?

 忘れてしまった。


 段々と涙が収まってきた頃に、私と睡蓮の身体が少しだけ離れる。夕陽を淡く浮かべた睡蓮の黒い瞳は、恐ろしいまでに美しかった。そんな睡蓮の目が一瞬、何かを躊躇うような気持ちをちらつかせた気がした。不思議に思いながら、私は睡蓮を見つめ続ける。


 睡蓮の淡い色合いをした唇が、そっと動いた。

 何を告げられたのだろうか?

 忘れてしまった。


 気付けば私はまた、睡蓮に抱きしめられていた。あれだけ流れていた涙が、涸れ果ててしまったかのように感じられた。私は睡蓮の温かな体温と冷たい香りに包まれながら、目を閉じて微笑んだ。


「……琴子」


 睡蓮の声が、耳元で柔らかく響く。

 自分の名前を呼ばれたから、彼女の名前を呼び返したいと思った。


「睡蓮……」


 彼女の腕の力が、少しばかり強さを増したように感じられた。微かに痛かったけれど、それよりもずっと、心地よかった。


 そう思ったのはきっと、睡蓮が私の最愛の友人だからなのだろう。

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