第32話
途方もなく長い夢を見ていた。両親から愛されず、寂しい思いをしていた幼い頃の記憶からはじまって。アレックスとの不本意な婚約を結ばされ、幸せを諦めてしまった日々へ続く。
癒されることのない渇き。いつも孤独で、心が空っぽで満たされない毎日。セルミヤにとってはそれが当たり前のことだった。――彼に出会うまでは。
アドルフに出会いセルミヤの世界は色付いた。穏やかで温かい光に包まれたような心地の毎日だった。
「――ミヤ」
暗闇を彷徨う中で、あの人の優しい声が名前を呼んだ。
「……アド、ルフ……」
瞼を開くと、見慣れた天井がそこにあった。住まわせてもらっていたヒューゼン侯爵邸の一室。ベッドに寝かされており、その傍でアドルフが泣きそうな表情でこちらを見下ろしている。やつれているし、目の下にくまをこしらえていて。見るからに弱っている様子だが、それでも繋がれた手は優しくて温かい。
「ご飯……ちゃんと食べなくてはだめですよ。睡眠もきちんと摂ってください。少し……痩せましたね」
繋がれた手を解いて、アドルフの頬をそっと撫でた。すると、上から覆い被さるように抱き締められる。
「すまない。……お前の気持ちを見くびっていた。悪かった。俺が心配をかけたせいで、お前にあんなことをさせてしまった」
「アドルフ……」
まさか彼も、自分のためにセルミヤが命を賭してしまうとは思わなかったのだろう。セルミヤ自身も、誰かのために身を賭す日が来るなんて思っていなかった。
「……良かった。お前が目を覚ましてくれて……本当に」
耳元で囁かれる声が震えている。声だけでなく、抱き締めてくれる手も震えていて、どれだけ案じてくれていたか伝わる。アドルフの背中に腕を回して、宥めるように背中を撫でた。
「アドルフはなんにも悪くありません。だからどうか……謝らないで」
アドルフはセルミヤの上でゆっくりと息を吐き、身体を起こして椅子に座り直した。セルミヤも上半身を起こして彼に問う。
「上書き契約は? それに……私は一体どのくらい眠っていたんでしょうか」
「無事に成功したよ。……三週間。お前は目を覚まさなかった。生命維持に必要なエネルギーが失われていたそうだ」
ふと、視線を下に落として自分の身体を確認した。傷などは特になく、痛みもどこにも感じない。
「……私、生きていたんですね」
ぽつりと吐露した。正直なところ、十中八九命はないと思っていた。ただ、アドルフを解放するためなら自分はどうなってもいいという覚悟だった。しかし、今起きてみると予想に反して体はピンピンしている。
「これを覚えているか? お前が倒れたとき、ドレスから出てきたんだ」
アドルフは懐から布包を取り出した。その中には、砕け散ったガラス片のようなものが収められている。これは、かつて白竜から託された玉石だ。白竜の「いつかそなたの役に立つ」という言葉を信じて、肌身離さず持ち歩いていたのだが。
(……そういえば)
意識を失う寸前、何かが割れる音を聞いた気がしたが、それはこの石だったのだと理解した。
「これは……以前洞窟で白竜様にいただいたものですね」
「やはりそうだったか。これは――
「そうですか。なら、白竜様が私を守ってくださったんですね」
「ああ。お前は強力な魔力負荷を受けて、外傷がなかった。奇跡に等しい」
砕けた宝珠の入った包みを受け取り額に当てて、「ありがとう」と白竜に祈りを捧げた。見透す竜と自称していた彼は、どこまで見透していたのだろうか。
アドルフは眉を寄せ、怒ったような、悲しそうな顔で言った。
「ミヤ。今回の行動もそうだが、お前はたまに自己犠牲に走ることがある。自分自身をもっと大事にしろ。自分の命を賭すような真似はもうするな。でないと……俺の心臓がいくつあっても足りない」
「アドルフだって私を守るために突然姿を消したじゃないですか。……一人で何もかも背負おうとしないでください。私……頼りないけれど、ちょっとくらいは寄りかかってください。支えますから」
「ああ。分かった。何かあったときは必ずそうしよう。だからお前も自分を大切にすることを誓え」
「分かりました。約束します」
自分を大事に。彼に指摘されて、今まで一番大切なはずの自分のことを蔑ろにしてきたと自覚した。でも今、自分の心が望むままに生きられるというなら。
「私、前みたいにあなたと一緒にいれたらってずっと思っていました。お傍に……置いてくれますか?」
セルミヤの青い瞳が潤む。アドルフに身を寄せて、彼に縋るようにぎゅうと抱き締めた。頭上からふっと笑う声が降ってくる。
「ああ、勿論だとも。お前が望むなら契約主として命じてくれたって構わない」
「そんなこと、私がするはずないじゃないですか」
今まで散々苦しんできた禁呪を使うつもりはない。
「アドルフも、私と同じことを望んでくれて……いますか?」
緊張しながら尋ねると、アドルフはそっとセルミヤを引き離した。セルミヤの小さな両頬に両手を添えて撫でるように涙を拭った。
「ああ。俺もミヤといたいと思ってる。お前は危なっかしくて、ほっとけやしないからな」
優しい手つきで肌を何度も撫でられる。彼の手に弄ばれながら、アドルフの見せる柔らかな眼差しに照れくさくなり思わず目を逸らした。
「く、くすぐったいです……」
赤面したこちらの様子に気づいているのか、アドルフは意地悪に口の端を持ち上げたのだった。
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