第31話

 

 皇女の誕生日を祝う夜会からほどなくして、クーデターが起きた。オティリオが部隊を主導。大勢力で皇帝兵力を圧倒した。


 カリストは王都を離れ逃亡を続けたが、まもなく討ち取られた。カリストの独裁政権の崩壊である。各役職は刷新された。また、元老院の過半数賛成によりオティリオを新皇帝に据えることが決定された。


 弾圧を受けてきたエルシア帝国の人々は、カリスト政権からの解放に歓喜した。


「僕を恨んでいるだろう? 僕は彼女の命より、先帝を討ち取る目的を優先させた」


 オティリオは申し訳なさそうに言った。オティリオはセルミヤが上書き契約を行うことを認めた。彼には彼の守るべきものと正義があり、そのために必要な選択をしたまでだ。それに、謝られたところで責める気力さえない。


「今更言ったところで後の祭りだ。それに……彼女はまだ生きている」

「そうだね。驚いたよ。あれほどの負荷を受けておきながら、肉体に一切の損傷が見られないなんて。奇跡としかいいようがない」


 上書き契約を遂行した後、気を失って倒れたセルミヤにはかすり傷一つなかった。しかし、あの夜から二週間たった今も眠り続けている。


 目に見える損傷がなかったとはいえ、彼女が目を覚ます保証などどこにもなく、油断ならない状態であることに変わりない。優秀な宮廷医が何人彼女を診療しても原因は分からず。呪術による反応を医学的に説明できる者はいなかった。その現実が、アドルフを途方もない絶望にたたき落として苦しめている。


「……ミヤ」


 セルミヤはヒューゼン侯爵邸の客室に寝かされている。長いまつ毛が、真っ白な肌に影を落としている。安らかな寝姿は人形のようだ。


 願わくば、もう一度あの子が無邪気に笑う姿を見たい。ただ彼女が幸せで、健やかであればそれで充分だったのに、自分と出会ったために命さえ危ぶまれてしまった。深い自責の念と、目覚めを乞う気持ちで心が乱れていた。


 そっと、彼女の白磁の頬を撫でた。


「上書き契約を自分にかけてくれ」と必死の剣幕で言ったセルミヤと対峙したとき、どれだけの愛情を抱いてくれていたかを知った。いつもは、かすり傷一つでべそをかいているようなか弱い娘が、命を投げ打ってでもアドルフを守ることを願った。

 燃え上がるように苛烈で、どこまでもどこまでも深い愛情を彼女は内に隠していたのだ。


(彼女が目覚めるなら、もう俺は他に何も望まない。なんだってする。だからミヤ。頼む……目を開けてくれ)



 ◇◇◇



 カトリーナ・ロッツェは、クーデターから二週間した日、ヒューゼン侯爵邸を訪ねた。目的は他でもなく、この屋敷に滞在しているアドルフに婚約破棄を申し入れるため。


 皇太子オティリオが皇位を継ぐにあたり、廃帝の代で国家法規に違反してきた重鎮たちが次々に捕らえられていった。国家法とは平和と人道の罪を規定したもの。カリストの時代は国家法が適切に機能していなかったが、時代の代わりと共に、宮廷の膿が出されることになったのである。もちろん――アドルフもその例外ではないはずだ。オティリオの忠臣として戦争犯罪まがいなことを行ってきた彼は、いくら功績があっても処罰の対象となりうる。


(冗談ではありませんわ。婚約者というだけで、ただの紙切れ一枚の関係でわたくしの首まで飛ぶだなんて)


 ヒューゼン邸に来る前に、アドルフの財産の一部の名義をカトリーナに変える手続きを行った。あとは、婚約破棄の示談書にサインさせて、慰謝料として財産の譲渡を認めさせるだけだ。


 バロック様式の絢爛豪華な屋敷。玄関に入り、執事らしき初老の男性に案内されたのは、一階の角部屋だった。


 四柱に天蓋がついたいかにも少女に好まれそうなロココ調ベッドに、少女が寝かされている。その傍らでアドルフが少女の手を握っていた。


(彼女はあのときの……)


 淡紅色の柔らかな長い髪に、整った顔立ちの小柄な少女。彼女は皇女の誕生会の夜に皇宮で会った少女だ。


「突然訪ねてきて勝手を申し上げますが、わたくしとの婚約を解消してくださいませ」

「分かった」


 急な申し出に、特に驚きもせず頷くアドルフ。彼の様子は健常とは言いがたく、見るからに悲嘆に暮れていた。よっぽど精神的に参っているみたいだ。カトリーナはその横で示談書を取り出し、筆と共に渡した。


「記載事項に納得していただけましたら、下にサインを」


 アドルフは書面を受け取ると、ろくに確認もせずにサインした。かなりカトリーナ側に有利な内容だったが、これはありがたいと内心で安堵した。


「君には申し訳ないことをしたな。これからどうするつもりだ?」

「あなたに謝られる筋合いはございませんわ。むしろ、籍を入れなかったことに感謝しております。……これから国の外に出て、何か事業でも始めようかと考えておりますわ」

「そうか。君はたくましい女性なんだな」


 それだけ言うと、アドルフは再び切々とした面持ちで少女に視線を落とした。見ているこちらまで憂鬱になりそうな様子にため息が出る。カトリーナは少女の方を眺めた。


「彼女、あの夜はとても元気なご様子でしたが……一体何があったのです?」

「夜会の日……強い魔力負荷を体に受け、それから眠り続けているんだ」

「魔力負荷、ですか」


 彼の言葉を復唱して、つかつかとベッドの横に歩み寄った。そして、無言で毛布を剥ぎ取り、彼女の肌着のボタンを次々と外していった。アドルフはその突拍子もない行動にぎょっとしている。


「おい、ロッツェ嬢……君は何を、」

「少し触診させてくださいませ」


 少女の肌に触れて具合を確かめてから、ベッドの端に腰を下ろして足を組んだ。


「お医者様はなんと?」

「異常なし。……つまり原因不明だと」

「やはりそうですか」

「……?」

「これは医学的に診断できるようなものではございません。人は、魔力の他に、生命維持に必要な生命エネルギーというものを体内に備えております。このご令嬢は、魔力負荷を受けた影響で、生命維持に必要なエネルギーを多量に体外に放出し……失っている状態」

「どうして触れただけでそれが分かった? 君は何か特殊な魔術の心得があるのか?」


 彼の問いに、呆れながらため息をついた。


「わたくし、学院では首位の治癒魔法の使い手でしたのよ。魔力による怪我や症状を普通の医者に視せるとはナンセンスですわ。これは魔術士の分野です。風邪も引かない怪我もしない頑丈な野生児のようなあなたには縁のない話だったかもしれませんがね」

「やけに言い方に刺があるような気がするんだが……」

「別に。ただ婚約者の魔力属性すらご存知ないあなたに、ほとほと呆れ果てているだけですわ」

「……光属性、か」

「さようでございます」


 アドルフは説明を聞いて、心配そうに眉を寄せた。


「どうしたら彼女を元に戻してやれる?」

「…………」


 真摯な眼差しに、カトリーナは思わずふっと笑った。


「何かおかしかったか?」

「いえ……冷酷無慈悲と恐れられたあなたでも、そういうお顔をなさるのですわね」

「……悪いか」

「いいえ。人間らしい一面がおありで少し意外だっただけです。素敵だと思いますわよ」


 婚約者として過ごした年月の中で、彼がこういう表情を見せたことは一度もなかった。いつも仏頂面で、凍えてしまいそうな威圧感があり、人を寄せつけなかった。


「ご安心ください。私の見立てでは命に別状はないかと思います。ひとまず、私の魔力を生命エネルギーに変換して彼女の身体に流してみます。やり方をお教えいたしますから、以後はご自分でやって差し上げてください。なかなか高度な技術で習得が難しいですが、あなたならば問題ないでしょう」

「……ありがとう、ロッツェ嬢」

「ふ。礼を言われたのも、これが初めてですわ」


 再び少女の方を向いて、腹部に手を添えた。力を加えたら壊れてしまいそうな、線が細く華奢な身体に少しずつ魔力を注いでいく。精密な作業で、気力が削られていき額に汗が伝った。


 しばらくして少女の生命エネルギーの流れが整ったのを確認した。それから、アドルフにやり方を指導してから早々に屋敷を出た。


 あの少女の身体に触れたとき、なぜかカトリーナの魔力が彼女の心臓のあたりに近づくことを拒んだ。そして禍々しい強力な術の気配と、アドルフの魔力が入り交じっていた……。魔力の負荷がかかった要因はそこにあるのだろう。


(気がつかなかったことにいたします。アドルフ様、これは一つ――貸しですわよ)


 ヒューゼン家の門を出たあと、荘厳な屋敷の方を振り返った。今もアドルフは、不安に心を苛まれながらあの若い娘に寄り添って甲斐甲斐しく世話をしているのだろうか。


 カトリーナは知っていた。アドルフと廃帝カリストにはのっぴきならない因縁があると。彼が本来彼が持つ理念思想をねじ曲げて、暴君であった廃帝の言いなりになっていたことを。


(あのお方の傷を癒せるのは……わたくしではなく、きっとあの優しい少女なのでしょう)


 ふっと小さく微笑み、深く被っていた帽子のつばを指先で少し上げる。今日はいつもより空が綺麗だ。どこまでも澄んだ青空を見上げ、目を眇めた。

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