第30話

 

 アドルフを連れて長い廊下を歩いた。広間を出ていくつかの角を曲がった先、大きな扉が二つ並んでいる。その内の左の扉に手をかけて押し開いた。アドルフを中に招いてから、内鍵を閉じる。


「……アドルフも上書き契約について知っていますよね」

「ああ。……それがどうした?」

「その呪術を――今私にかけてください」


 テーブルの上にあらかじめ用意しておいた、上書き契約の概要が書かれた魔導書を手に取って渡す。


「何馬鹿なこと言ってるんだ。俺が非魔力者のお前にそんな危険な呪術をかけると思うか? それに、適合率が前契約者より高くなけりゃ話にならない」

「それなら問題ありません。適合率を診断した際に、白い光を確認しましたから。……近く、この国で内乱が起こります。皇帝陛下に対立する勢力が立ち上がろうとしているんです」


 アドルフの元に歩み寄り、彼の手を両手で包んだ。


「もう、あなたに誰も傷つけさせたくありません。陛下との奴隷契約呪法を無効にしなければ、あなたはまた大勢の人を傷つけることになるんです。分かってください。私は……あなたを守りたいんです。あなたが望まない罪を重ねることから」


 すると、アドルフは怒りを滲ませた表情で、セルミヤの手を振り払った。


「ふざけるな。そんなことお前に頼んだ覚えはない」

「……これはあくまで、私のエゴです」


 彼がこういう反応を取ることは想定の範囲内だ。


(……ごめんね、アドルフ)


 心の中で謝ってから数歩後退し、ドレスの内側に忍ばせておいた短刀を取り出す。その切っ先を自分の喉元に突き立てた。


「……ミヤ! お前何して――」

「承諾してもらえないなら私、私……ここで自刃します。だって、上書き契約の負荷で死ぬのも、自分で死ぬのも変わらないもの」


 アドルフが短刀を取り上げるようとこちらに手を伸ばした。その手をかわして、更に一歩後ろに下がる。


「ナイフを取り上げたって無駄ですよ。これがないなら、舌を噛み切ります。あそこの小窓から飛び降りてもいいんです」

「…………」


 セルミヤの剣幕に絶句している彼。


「私も、あの一年半があって良かったと心から思っています。自分が本当の自分らしくいられて、とっても幸せな毎日でした。縁って不思議ですね。……きっと、私があのときアルフ山に迷い込んだのはこのときのためだったのでしょう」

「やめろ、それ以上言うな」

「アドルフは……私なんかよりずっとずっと、重く苦しいものを背負っているのに、こんな辛い中でも頑張って生きていて立派です。尊敬してます。……私、あなたが人々に怖がられていても、本当は優しくて豊かな愛情がある人だということを知っています」

「頼む、もうやめてくれ」

「私なんて、アドルフからしたらなんの取り柄もないただの小娘かもしれないけれど……アドルフのことが、」


 好き。そう言いかけたところで、アドルフの大きな腕に抱きしめられていた。その拍子に、手に持っていた短刀が滑り、カランと音を立てて床に転がった。アドルフはセルミヤの頭の上で、枯れた声を絞り出すように囁いた。


「頼むからもうそれ以上言わないでくれ……。何も聞きたくない」

「…………」


 感情が溢れ出してきて、鼻の奥がつんと痛くなる。このままアドルフに縋り付きながら、声を上げて泣いてしまいたかった。けれど、濁流のように押し寄せる感情の波を押し込んで、両手で彼の胸を突き離した。


「さぁ早く。あまり時間はかけられません」

「…………」

「長く続いた苦しい日々を私が終わらせます。あなたにはもう、誰一人傷つけさせません」


 アドルフは苦しげに顔を歪めながら言った。


「ならばせめて……せめて、契約主として死ねと命じろ。……俺はカリストのせいで、今は生きることも死ぬことも自分で決められない。お前に先立たれたら俺はもう、生きていけない」


 そんなに自分が彼にとって大切な存在になっていたとは思わなかった。彼がこんなに弱気なことを言うのは初めてだ。愛情と悲しさがひしひし伝わってきて、これ以上ないほど胸が締め付けられる。


「分かり……ました」


 小さく頷くと、少し安堵したように肩を竦めたアドルフ。彼はセルミヤに託された魔導書を開き、重々しく言った。


「ミヤは、この世の中で最も残酷な女だよ」


 彼のその言葉を承諾だと理解した。穏やかな微笑を頬に浮かべて、ありがとうと彼に告げる。


「城内にオティリオ殿下やキール様が控えております。呪術が完了したらこの通信機をお使いください」


 耳たぶから小ぶりのピアスを外してアドルフに託した。


 上書き契約を行う際、この部屋はアドルフとセルミヤの気が入り交じった空間になる。そこに他人の魔力が関与しないよう、オティリオたちには離れた場所にいてもらっている。


 通信機をアドルフに渡したのは、呪術後にセルミヤが通信機を使える状態であるか定かではないからだ。


「この呪術は非常に緻密かつ高度な呪術で、莫大な魔力を消費する。その衝撃に耐えられるようにこの部屋に結界を張る。お前はその辺に座ってろ」


 そう言って結界を張るための詠唱を開始した。セルミヤは指示に従い、部屋の中央あたりの床にちょこんと腰を下ろした。


 手が震えている。手だけではない。緊張と恐怖で、体の感覚がどこかに消えてしまったようなふわふわとした感覚がする。両手をぎゅっと握りしめ、唇を固く引き結んだ。


 結界を張り終わった後、アドルフは苦々しい面持ちで言った。


「本当にやるのか? お前もこの呪術をかけたらどうなるのか分かってんだろう。……さっきから震えてる。怖くて仕方がないはずだ」

「全て承知の上です。お願い、上書き契約をはじめてください」

「…………」


 アドルフは物言いたげに何度か口を開閉させたが、その唇から紡がれたのは次のひと言だった。


「――今から、上書き契約を開始する」


 ごくんと喉を鳴らし、胸の前で両手を祈るように組んだ。


 アドルフの艶のある声で呪文が唱えられると同時に、二人の足元にそれぞれ、黒々とした魔法陣が発現する。強烈な突風が吹き、部屋の調度品が音を立てて倒れていく。


「…………っ」


(……痛い、焼けるように胸が、痛い…………)


 全身に鋭い痛みが駆け巡る。たまらず両手を床につき、か細い呼吸をしながら必死に苦痛を逃そうと試みる。


「……う……っ……ぁあっ」


 強烈な眠気が襲ってくる。意識がどこまでも深い場所に吸い取られていくようなそんな感覚が。


 まだ気絶する訳にはいかない。上書き契約は、セルミヤが命じて初めて成立するのだから。


(もう少しだけ耐えて……私の体)


 体が内側から爆発するような、外から引き裂かれるような、四方からの苦痛が圧しせまる。精神力だけでそれを堪えた。詠唱が終わり、涙でぼやけた瞳で胸元を見ると黒い契約印が確かに浮かび上がっていた。


 アドルフは今、どんな顔をしているだろうか。


 ただ必死な思いで、アドルフの服を手で手繰り寄せ、声を絞り出した。


『アドルフ・シュグレイズ。新たな契約者としてあなたに命じます。もうあなたは誰の命令でもなく、自らの意思で、望むままに全てを選択……しなさい……っ』


 アドルフの服を掴んでいた手に力が抜け、ばたりと床に倒れ込んだ。アドルフが何か叫んでいるのが聞こえるが、意識がどんどん薄くなって上手く認識できない。


(ごめんね……アドルフ。生きて、幸せに……)


 遠のいていく意識の向こうで最後に――パリン、と何かが割れる音を聞いた気がした。

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