第29話

 

 一方で、状況に理解が追いつかない様子のアレックスが、ぽかんとだらしなく口を開けて硬直している。しかし、アドルフの姿を見るやいなや顔を青白くさせ、わなわなと震えはじめた。


「き、貴様は……アドルフ・シュグレイズか……!?」


 アドルフの無表情に、氷のような嘲笑が掠めた。まるで、自分に対し恐れをなすアレックスを面白がるように。


「ご名答」


 アドルフはその場に片膝をついて、床に転がっているアレックスの半身を起こして言った。


「君はようだ。俺がいなければ今ごろこんがり丸焼きになっていたことだろう」

「ひ、ひい…………っ」

「何を怖がってる? ……可哀想に。火傷をしているようだな。だが君は――つくづくな。俺は治癒魔法が使える。君が望めば、その傷を今治してやらんこともない。但し、今夜俺の部屋にくるならな。何、悪いようにはしないさ」

「け、結構だ……は、離してくれっ!」


 アドルフは「運がいい」という言葉を重ねた。これは先程セルミヤがアレックスに掛けられた言葉。

 アレックスが燃えたのはアドルフの報復なのだと察した。


 アレックスは狼狽しながらアドルフの腕の中から飛び退いた。全身びしょ濡れで、ぽたぽたと水滴が床に落ちている。焼けてぼろぼろになった服のまま、転がるようにホールを出ていった。アレックスのあまりに情けない姿に、ホールの者たちはせせら笑った。アレックスに身を絡ませていた女性たちは居心地悪そうに、彼の後を追っていった。


 アドルフは起き上がりこちらを一瞥した。


「怪我はないか?」

「大丈夫です。……助けてくださってありがとうございました。でも、恐れ知らずにも程がありますよ。彼はあれでも国賓です」

「さあ、なんのことだか。奴が勝手に燃えただけだ。俺が何かした証拠なんてどこにもないだろう」


 白々しいにも程がある。アドルフはさもどうでもよさそうに鼻を鳴らした。数ヶ月ぶりに会った彼は、長く伸ばしっぱなしにしていた銀髪を後ろで束ねていて、かっちりとした装いをしている。立ち姿はとても気品に満ちていて。これが帝国軍副総長としての本来の姿なのだろう。


 こちらを見つめる美しい双眸がその刹那、かすかに揺れたような気がした。


「あの、アドル、」

「俺は行く。変な男に絡まれないようしっかりお隣の彼に守ってもらうといい。――お嬢さん」

「…………」


 まるで他人のような愛想のない態度で、アドルフは踵を返した。


(ミヤって……呼んでくれなかった)


 初めて出会ったときのように、彼はセルミヤを「お嬢さん」と呼んだ。自分とセルミヤの繋がりを他者に知られないための配慮だろう。しかし、アレックスに絡まれているセルミヤをつい放っておけずに助けてくれたあたりは彼らしい。


 突き放されてしまったものの、上書き契約の遂行のためになんとかして彼を会場外の個室へ連れていかなければならない。セルミヤがアドルフを追おうとしたときだった。


「アドルフ様。お怪我はございませんか?」


 赤みがかった紫の長い髪をはためかせた美しい女性が、アドルフの元に駆け寄った。懐からハンカチを取り出し、服についたすすを払う様子は、いかにも親密そうだ。アドルフの胸元に添えられた細く滑らかな手を見て、とっさにキールの顔を見上げて尋ねた。


「キール様。……あの女性は?」

「カトリーナ・ロッツェ嬢ですよ」

「…………!」


 カトリーナ・ロッツェといえば、アドルフの婚約者である令嬢だ。以前、キールからアドルフの婚約者の存在を聞かされたときはショックのあまり食欲不振になった。しかし、キールにその後、彼らの婚約はあくまで政略結婚で愛情はないと平然と付け加えられた。セルミヤをからかうためにその事実を伏せていたキールとは、しばらく口を聞かなかった。


 アドルフは随分冷淡な様子で、自分に寄り添うカトリーナを引き剥がした。カトリーナはというと、つれない態度に一切顔色を変えずに彼の横に立ち、色んな人たちと挨拶していた。


 その様子を遠目で見ていると、まもなく。アドルフはカトリーナと共にホールを出ていった。


「キール様。私……後を追います」

「本当にお一人でよろしいのですか?」

「ええ。……大丈夫です」


 二人の後を追ってホールの外へ出た。アドルフとカトリーナは、扉を出た先に続く廊下を並んで歩いていた。二人の間に会話はなく、靴音だけが広い廊下に響いている。


「待ってください! アドルフ」


 後ろから声をかけると、二人は立ち止まってこちらを振り返った。アドルフがこちらの姿を見てわずかに眉を上げる。


「あら、先程のご令嬢ですわね。どうかなさった?」

「セルミヤ・ラインレッツと申します。彼と少しお話させていただきたいのですが、構いませんか?」

「わたくしは構いませんわ。アドルフ様、彼女、お知り合いでしたの? あなたが女の子を助けてあげるなんて珍しいと思いましたの」


 アドルフは無表情で一言答えた。


「いや、彼女とは初対面だ。俺は君と話すことはない」

「…………」


 セルミヤのことを冷たくあしらい、彼は背を向けた。他人のフリをするのは、セルミヤのための配慮だと理解している。


 でも、カリストによりあらゆる行動を掌握されている彼の現状を考えると、二人きりになれる機会は次にいつ巡ってくるか分からない。ここでアドルフに逃げられる訳にはいかないのだ。


「ま、待ってください! とても大切な話なんです」


 必死で呼び止めようとすると、カトリーナが首を横に振った。


「アドルフ様はあなたとは初対面だとおっしゃっておりますわよ」

「初対面ではありません。私は……私は、アルフ山で一年半同きょ――むぐっ」


 彼と同居していた過去を打ち明けようとすると、それを見兼ねたアドルフがすぐに飛んできてセルミヤの口を手で塞いだ。


「……! む、んぐ……んん」


 頭上でため息が聞こえる。


「悪いがロッツェ嬢。先に行っていてくれ」

「……分かりましたわ。くれぐれも面倒は起こさないでくださいませ」

「……ああ。――悪いな」


 呆れながらもあっさりと了承し、踵を返したカトリーナ。彼女の姿が見えなくなったころ、アドルフが頬をつねってきた。


「いたたっ」

「おい。何を無神経にペラペラ喋ろうとしてんだ。せっかく人が他人のフリしてやってるってのに」

「ごめんなさい。でも、こうでもしないとアドルフを引き止められないと思って……」


 アドルフがセルミヤを守ろうとする良心につけ込むなんて、我ながら卑怯な手を使ったと思う。いたたまれない気分になって肩を竦めた。その様子に彼が再び嘆息する。


「それで? 大切な用ってのはなんだ?」


 これから彼にもっと残酷な仕打ちをしなければならない。それを考えると、ますますいたたまれなくなり目を伏せる。


「……詳しい話は後でします。私に着いてきてください」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る