第27話
カトリーナ・ロッツェは、田舎を治めるロッツェ伯爵家の次女として生まれた。凡庸だが朗らかな人柄の伯爵は、領民から好かれてきた。夫人も派手なことは好まず、慎ましく優しい人物だった。
兄や姉は両親の気質を受け継いだが、カトリーナは違った。負けん気が強く向上心の塊のような彼女は、片田舎の中流貴族という地位に不満を覚えていた。
カトリーナは美しい容姿をしていた。しかし、社交の場では、『身分が惜しい』、『見た目だけ高貴な令嬢』などと揶揄されることもしばしば。
そんなカトリーナの人生は、アドルフ・シュグレイズとの婚約によって一変した。
『美しき英雄』という異名を持ち、国民から尊敬と畏れを向けられていたアドルフ。政治的な理由によりロッツェ家に白羽の矢が立ち、娘をひとりアドルフに嫁がせるよう上から命令された。両親はそれを憂いたが、カトリーナはこれ以上ないほど自分には都合の良い話だと引き受けた。
アドルフの婚約者となってからは、誰一人としてカトリーナを下に見る者はいなくなった。誰もがカトリーナの機嫌を伺うようにへつらい、英雄の婚約者に対して羨望を抱いた。媚びられたり、嫉妬されることがカトリーナを優越に浸らせた。
アドルフが失踪したおよそ四年間も、彼の婚約者であり続けた。所有する領地、屋敷、財産の全てを代わりに管理して、夫人の務めを果たしてきた。
――そして。
「アドルフ様。いい加減、わたくしと正式に婚姻を結んでくださってもよろしいのではありませんか?」
皇都内の侯爵邸にて。敷地の一角に佇む調合室で、大量の本や薬草、化学器具に囲まれながら作業をしているアドルフに尋ねる。
アドルフは軍の任務以外で屋敷にいるときは、調合室に引きこもって熱心に作業している。ストレスが多い役職に就いているので、こうして没頭することが良い発散になっているのかもしれない。
アドルフの人となりについてそれほど深く知るわけではない。けれど、婚約者として過ごした日々の中で、彼が戦闘魔術の類いより、薬草やポーションの方に関心があることは知っている。
アドルフはガラスの試験管を試験管立てに差し入れ、こちらに視線を上げた。そして端的に言った。
「なぜだ?」
凍えてしまいそうなほど冷たい眼差しに、背筋がゾクリとする。
長い銀色のまつ毛に縁取られた美しい双眸。いつ見ても人間離れした彫刻のような美しい顔立ちをしていると思う。彼の整った顔に威圧が乗ると、一層迫力を増して見る者を圧倒する。
「な、なぜって……。わたくしはあなたの不在中も婚約者として務めを果たして参りましたわ。きっと、これからのアドルフ様にとってわたくしは必要な存在のはずですわ」
人々から尊敬される帝国軍副総長の妻の座を今更手放そうという気はない。他人より優位に立つ感覚を知ってしまったのだから。
「最初に言ったはずだ。俺は君と結婚する気はないと。あと半年で婚約は無効になる。君は、もっと相応しい相手を探してくれ」
婚約には有効期限があり、カトリーナとアドルフの場合、あと半年で婚約は無効となる。
「あんまりですわ。私はあなたと婚約してから一生懸命尽くして参りましたのに……」
両手で顔を多い、しおらしげに泣く素振りを見せた。大抵の男はこうやって涙を見せたら同情を誘えるが、彼に通用するかは分からない。
すると、彼は椅子から立ち上がりこちらに歩み寄ってきた。つかつかと距離を縮めてくるアドルフに対して反射的に数歩後ずさった。
気がつくと、扉まで追い込まれ、扉に背中をつけていた。
「どうして君は俺に固執する? 別に俺を愛しているというわけではないだろう。――むしろ」
「…………」
喉の奥がひゅっ、と鳴った。熱のない冷たい眼差しに捉えられ、彼の瞳から目を逸らすことができない。身体が強ばり身動きが取れない。
自分は彼の美しさに魅入っているのであり、同時に恐れを抱いているのだと理解した。
「むしろ君は、俺を恐れている。君だけじゃない。大抵の人間は俺を恐れ遠ざかる。――例外はあるが」
(……例外?)
カトリーナとて、この人が怖くない訳ではない。たった一人で他国の軍や魔物を圧倒する彼を尊敬している。また彼は一度たりともカトリーナを害そうとしたことはなかった。それでも、得体の知れない強大な力に対する恐怖を抱いてしまう。
「そうですわね。私はあなたを愛してはおりません。けれど、あなたの婚約者というステータスに誇りを持っておりますの。……もともと愛のない政略結婚だったのですから、なんの問題もないでしょう?」
「俺は世間から賞賛だけされてるわけじゃない。君にも迷惑をかけるだろう」
「ええ、存じておりますわ。全て加味した上で、メリットの方が大きいということです」
引き下がるつもりはなかった。
「……結婚ってのはきっと、愛情がある方が幸せなんじゃないか。ロッツェ嬢にも……俺なんかよりそういう相手の方がずっといいだろう」
「え……」
思わぬ言葉に面食らって、目を瞬かせた。政略結婚が当たり前の貴族社会で、夫婦に愛がないのは全く珍しいことではない。
「ふっ……アドルフ様でも、そのようなロマンチックなことをおっしゃるのですね。一年半の間に心境の変化があったのでしょうか」
「…………」
「そのお顔は図星……いえ、やはり詮索は控えますわ」
アドルフは決まり悪そうに目を伏せた。
「私を妻にしてくださるのなら、愛人でも妾でも作ってくださってかまいませんわ。私は夫人としての地位と権利があれば充分なのですから。……まあ、この話はまたにしましょう。もう一つ。本日はアドルフ様に用件がありますの」
「用件?」
「ええ。こちらをご覧ください」
懐から一通の封筒を取り出した。封蝋には皇家の刻印が刻まれている。
「皇女殿下の誕生日を祝う夜会の招待状ですわ。アドルフ様は帝国軍幹部として出席する義務があります。わたくしに同行していただきますからね」
「……ああ。分かった」
封筒をアドルフに託し、早々に調合室を後にした。
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