第23話

 

 魔物の侵入を防ぐために、アルフ山の家の敷地に沿うように強力な結界を張り巡らせていた。その結界への攻撃を感知したのは、セルミヤを街が一望できる丘に連れていった直後のこと。


 日常が壊れる瞬間というのは、いつも突然、なんの前触れもなく訪れるものだ。アドルフの心を満たした彼女との日々は、一年半という、玉響たまゆらの出来事だつた。


 心に抱いた温かな気持ちと思い出をべネスに残して、転移魔法にて家の中へ戻った。直接目視せずとも結界の破壊作業が続いていることが感覚として分かる。わざわざ危険地帯へやってきて、こんなことをしでかす人物は思いつく限り一人しかいない。


「……カリスト」


 ぎゅっと拳を固く握り締め、たなごころに爪を立てた。


 彼がどれだけの兵を連れてきたかははっきりとは分からないが、かなりの魔力が四方から圧しせまる感覚がする。これでは突破されるのも時間の問題だ。


 カリストの猛威が迫るアルフ山へ一人戻ってきた理由は――セルミヤがこの家で同居していた痕跡を完全に消すためだ。


 そっと手をかざすと、瞬く間に青い炎が広がっていく。バチバチと音を立てた高温の火が、セルミヤと過ごしてきた穏やかな記憶ごと灰に姿を変えていく。


 ダイニングテーブルの上。彼女が今朝庭で摘んだ花が花瓶に生けられている。口がすぼまった筒状の花瓶に、ピンク色の花が凛と咲いている。彼女の嬉しそうな顔が頭を過ぎり、ためらいながら花瓶に手を添えた。アドルフが触れると、花もガラスの花瓶も一瞬にして朽ち果てて灰になった。


 セルミヤと共同で使っていた本棚にも火が燃え移った。紙がぼろぼろになるまで読み込んでいた料理本の数々も、頬を綻ばせたり時に涙ぐみながら夢中になっていた物語本も、塵になって落ちていく。


 彼女との穏やかな日常が遠くにいってしまった気がして、なんとも形容しがたい胸の痛みを感じた。


(誰かのために、心がこんなに揺らぐようになるなんて昔の俺は思いもしなかっただろう。この身に代えても――守りたいと思う存在ができるなど)


 セルミヤの存在をカリストに決して知られてはならない。彼はどこまでも卑劣な人間だ。セルミヤがアドルフの弱点と知れば彼女を人質にし、ひどいことをするかもしれない。


 崩れかかった家から外に出た。


(まだ全焼させるには時間がかかるな)


 日が落ちて辺りはすっかり暗くなっていた。彼女の痕跡が家中に残っている。全て消し去るまで炎魔法を解くことはできないので、ここから離れられない。


『アドルフ。決して逃げるなよ』

「…………」


 青い炎が木造の家を燃やし尽くしたとき、結界は破られ奴の侵入を遂に許した。聞き慣れた声が耳の奥に届き、アドルフの「逃げる」という意思が完全に封じられた。


 自信たっぷりの表情で目の前に歩んできたのは、カリスト・エルキエイスだった。金色の髪に凛々しい顔立ち。父親なだけあって、オティリオとよく似ている容貌だ。


 残虐非道で欲と権力にまみれた皇帝。アドルフにとってこの世で最も忌むべき相手だ。


「なぜここが分かった」


 アドルフの問いに、愉悦を含んだ笑みを浮かべるカリスト。


「半年前、アルフ山のある地点で最大規模の魔力が観測された。浄化魔法……あの規模の術を扱える奴は、お前くらいだ――アドルフ。……お前に悟られぬよう、半年間調査を進めた結果、ここより北の洞窟にて魔法が発動された形跡が見つかったのだ」

「…………」


 カリストが言っているのが、白竜の瘴気を浄化したときの魔法だと理解した。あのときの判断の迂闊さを、今更責めたところで遅い。


「その炎はなんだ? アドルフ。この私も、兵たちも、貴様自身さえも燃やし尽くすつもりか?」

「そうだと言ったら?」


 右手を振り上げて挑発的に睨みつける。青い炎が芝を焼き、周囲を取り巻く兵たちの元へ広がっていく。


『アドルフ・シュグレイズ。今すぐにこの炎を消せ』

「…………っ」


 身体が強ばる。意思は完全に彼の言葉に支配され、伸ばしていた腕が無理やり下に下げられる。それと同時に、暗闇を青く照らしていた炎が消失する。


 アドルフはカリストを睨みつけながら、嘲るように口角を上げた。


「それで。この兵の数はなんだ?  たった一人の迎えにしちゃ、随分と歓迎されたもんだ」


 百人以上の人の気配がする。炎によって照らされていた先には、武装した兵たちが、怯えや警戒を孕んだ眼差しでこちらを見ていた。


「お前が、私との間で結んだ契約に背く術を得ていた場合に備えたのだ。五百人いる」

「五百……か。たったそれだけで俺を抑えられる気でいるとは、舐められたもんだ」


 アドルフの言葉に、カリストがつき従えていた兵たちが数歩後ずさった。怖気づいている兵たちを嘲弄するように、ふんと鼻を鳴らした。


 腕を前に出して詠唱する。手の先に、どこからともなく冷気をまとった杖が現れる。氷でできており長くごつごつした杖は、一層アドルフの迫力を引き立てた。杖を使うことで、魔術により効力を与えることができるのだ。


 杖を地に振り下ろす。

 ――ビキビキビキッ……。アドルフを中心として氷が地面に広がっていき、兵たちの足元を凍りつかせていった。


 でも、意味のない抵抗だった。アドルフが力を顕示すると、カリストが凍りついた地面に視線を落として地を這うような声で呟いた。


「化け物め」

「…………」

「だが、お前は私の言葉に背くことはできぬ様子……。一体どんな手を使って私の手を逃れたかは知らんが、この契約印が互いに刻まれる限り、お前は私の言葉に抗うことなどできん」


 そして、命じた。


『ただちに魔法を解くのだ。一切の抵抗をせず、私につき従え。――アドルフよ』


(……ああ、嫌だ)


 命令は絶対に遵守の奴隷契約呪法。カリストの言葉が、意志を支配していく。抗おうとする気持ちが痛みを伴って心を蝕む。体も心も、何一つ思い通りにならない。アドルフの全部が、カリストの所有物なのだ。


「お前のような狂犬は、今一度躾が必要なようだ。城へ帰ったらしっかり分からせてやる。お前の飼い主は誰なのかということを」


 アドルフは目を閉じ、安らぎを教えてくれた愛おしい少女に思いを馳せた。



 ◇◇◇



 べネスの街に残されたセルミヤは、すぐに動き出した。べネスの街へ戻り、適当な宿屋を探す。


(アルフ山で何か非常事態が起きている。アドルフは私を危機から遠ざけるために、ここに残したのかもしれない。早く、オティリオ殿下にお知らせしなくちゃ)


 街外れの小さな宿屋を見つけ、一泊することにした。木造の簡素な作りの部屋で、最低限の家具が揃えてある。衣類を掛ける壁掛けのかぎがしつらえられており、そこに上着を掛けた。


 備え付けのテーブルの前の椅子に座り、燭台の蝋燭に火を灯した。アドルフから託されたピアスの金具をぐっと押して、魔道具を発動させる。


(……これで本当に繋がるの?)


 じっとピアスを眺めて待機していると、まもなく青い石から青白い光が広がり、扇状に映像が映写された。手で摘んでいたピアスを慌ててテーブルに置く。


「……君は……ラインレッツ嬢かい?」

「はい。アドルフ……様からこの魔道具をさきほどお預かりしました」


 金髪の男性は、見たところアドルフより年上に見えた。アドルフは硬派で近寄りがたい美形だが、この人は愛想が良くて人受けが良さそうな美形だ。


 彼はセルミヤの深刻そうな表情と、通信機を使用している状況から、何かを察したようだった。


「アドルフに何かあったんだね」

「はい。あの……あなた様が、オティリオ・エルキエイス皇太子殿下でお間違いありませんか?」

「うん、そうだよ」

「まずは、アドルフ様からの伝言をお伝えさせてください。すまない……そう一言」


 オティリオは非常に冷静だった。ふむ、と呟いた彼が続ける。


「ラインレッツ嬢。状況を詳しく話してくれるかい?」

「承知致しました、殿下」


 セルミヤは頷き、事の仔細を話した。


「――なるほどね。僕の推測では、今ごろアドルフは皇帝の手に下っている。皇帝はなんらかの手段でアルフ山の君たちの家を突き止めたのだろう」

「なぜ……。皇帝陛下の気配を彼が感知しなかったはずはないのに山へ戻ったのでしょう」


 しかし、すぐに頭の中に彼がアルフ山に戻らなければならなかった理由が浮かんだ。


(私を守るためだ)


 あの家には、セルミヤが暮らしていた痕跡があちこちに残っていた。万が一、カリストに存在が知られて危険が及ばないように、アドルフは己を顧みず家に戻ったのだ。


 本来なら逃れられたはずなのに、カリストの手中へ再び落ちることに対し、『すまない』の伝言を残したのだ。


「申し訳ございません。彼が皇帝陛下の手中に渡ってしまったのは私のせいです」


 アドルフの存在と異常な強さは世界の脅威だ。彼の力を非道に行使するカリストの元へ戻ることは、世界の脅威。それを承知した上でセルミヤ一人を守る私情を優先させたのだ。


「僕は、アドルフのことを責めるつもりはないよ。もちろん、君のこともね。アドルフが皇帝の傍らにいようといまいと僕のやるべきことは変わらない」

「やるべきこと……ですか?」

「皇帝カリスト・エルキエイスを玉座から引きずり下ろす。奴は世界と正義の敵だ。このまま野放しにしてはおかない」


 オティリオの瞳には燃えるような闘志と覚悟が滲んでいた。

 しかし彼はすぐ、鋭い目付きを和らげ、温和な微笑を浮かべた。


「君はまだ若いのに冷静だね」

「……それだけが取り柄です」


 アドルフが「俺は感情の起伏が乏しい」と言っていたことを思い出す。しかしセルミヤもまた、家族から愛されず、幼くして国一の問題児アレックスと婚約し、短くも不遇の人生だった。自らの立場への不安と、漠然とした未来への恐怖を常に抱え心は凍りついていた。


「僕はね、君にとても感謝している。アドルフから君の話は聞いていたよ。君のおかげで彼はやっと、人並みの幸福を知ることができた」

「……私は、私は何もしていません。彼のためになるようなことなんて、何も……」

「そんなことないよ。……ラインレッツ嬢は――彼を愛しているのかい?」


 セルミヤは彼を見据え、一も二もなく答えた。


「はい。愛しています。とても」


 もうこれ以上自分の気持ちを騙すことはできない。アドルフのことが好きだ。人として、異性として特別な愛情を抱いている。たとえ彼が自分に向けている愛情が、ただの家族愛で特別なものではなくたって構わない。叶わない恋だとしても慕わずにはいられない。


「ふふ。そう」


 オティリオはにこりと人好きのする笑みを浮かべ、その後に真剣な表情で言った。


「君は契約のことを知っているかい?」

「存じています」

「そう。僕はね、アドルフを山で暮らさせていた間にずっと探していたんだ。奴隷契約呪法を解く方法を」

「ま、まさか……見つかったのですか?」

「ああ。見つけた。正規の方法では呪術を掛けた皇帝のみが解除するしかない。だが、もう一つ策を見つけた」

「…………!」


 思いがけない言葉にごくんと喉を鳴らした。


「詳しい話は後で話そう。今君はべネスにいるんだよね? そちらに迎えの者を送ろう。君のことは皇太子――オティリオ・エルキエイスの名で保護する」

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