第16話
皇帝カリスト・エルキエイスから最初に下された命令は、『何もせずに見ていろ』であった。少年だったアドルフは、目の前で行われた蛮行に戦慄した。
「お前っ、母さんと父さんに何する気だ……!」
声は出せるのに、体が強ばって動かない。視線を逸らしたくとも、命令によって目が逸らせない。それでも懸命に命令に抗おうとした。
しかし、訳も分からないままに結ばれてしまった奴隷契約呪法により、胸は引き裂かれるように痛み、耐えがたい苦痛が全身を駆け巡った。
(なんなんだこれ……あの男の言葉に逆らえない。クソっ……動け、動いてくれよ! 俺の身体だろ!)
何もできず、立ち尽くしていた。カリストが右手をかざす。たったそれだけの些細な動き。しかし気がつくと、両親を赤い炎が包んでいた。
「やめろっ! 父さん、母さん……! 嫌だ、やめてくれ……!」
カリストは、幼い子供の前で肉親を惨殺した。まさに鬼畜の所業。アドルフはカリストを、人の形をしただけの悪魔だと思った。
「お前は何も悪くないぞ、アドルフ」
「自分を責めては駄目よ。……私の愛おしいアドルフ、生きて幸せになって」
それが父と母が最期に遺した言葉だった。アドルフは冷えた
「……ごめん、なさい…………っ、父さん、母さん。うっ……ぁ……ああっ」
両手を床に着き、
◇◇◇
アドルフは優秀な薬師の父と、平凡な農家の娘だった母の元に生まれた。非魔力者の両親でありながら、アドルフは類まれな魔力をその身に有していた。
八歳になったとき。どこからかアドルフの噂を聞きつけた帝国軍魔術士団に、半ば強引に引き取られることになった。アドルフを一目見てその潜在的力を見込んだ皇帝は、直々に奴隷契約呪法でアドルフを縛り付けた。そして、見せしめに両親を惨殺した。
両親を殺されたその日からカリストの生きた盾となり、最も忠実な部下として生きることとなった。
魔物が現れたから西へ行けと言われれば西へ行く。
大雨で災害が起きたから東へ行けと言われたなら、東へ行く。その繰り返しだ。
『アドルフ・シュグレイズ。北の地テネティストでの侵攻部隊に加われ』
『貴様は本日より帝国軍の副総長を務めるのだ。輝かしい名誉だろう?』
カリストは非常に好戦的で、度々戦争を引き起こした。アドルフは戦場で、カリストの言葉のままに大勢の戦士の命を奪ってきた。そしていつしか、心が凍りついてしまった。
心のない殺戮の兵器。カリストの使い駒であり――奴隷だった。心を押し殺し、淡々と任務を全うした。逃げることも、死を選ぶことも許されなかった。世間では『美しき英雄』だのともてはやされ賞賛を受けたが、アドルフの望む生き方とはかけ離れていた。
そんなとき――反カリスト派の皇太子オティリオ・エルキエイスと出会い、彼の援助によりカリストの魔の手から逃れることとなった。
アルフ山に身を潜めている間も、決して幸福ではなかった。
しかし。
目の前にある少女が現れたことで、彼の見る世界は一変した。
◇◇◇
「……アドルフ」
重い瞼を開けると、心配そうに眉を寄せたセルミヤがこちらを見下ろしていた。
頭部に柔らかいものが触れており、自分が彼女の膝を枕に寝かされていたことに気づく。硬い土の上で枕なしに寝て、首を痛めないように配慮してくれたのだろう。しかし、この体勢では彼女の方が疲れてしまっていたはずだ。足が痺れてはいないだろうか。
「……ずっと、ひどくうなされていましたよ。悪い夢を見ているんだと思って声をかけていたんですが、それでもなかなか起きなくて」
「……ああ。とても酷い夢を見ていた」
セルミヤの頬にそっと手を伸ばし、親指の腹で彼女のしなやかな頬を撫でた。
彼女は少し驚いたが、アドルフの手に自身の手を重ねた。
「大丈夫。ここにあなたを苦しめるものはなんにもありません」
「……そうだな」
瘴気の浄化が完了した後、体内の魔力を使い切って気を失ったことは覚えている。瘴気を払ってやった生物の姿はなく、辺りには湿っぽい静かな空気が漂っているだけだった。
「俺はどのくらい寝ていたんだ? それに……奴は?」
「だいたい二時間程度でしょうか。アドルフの予想通りあれは魔物ではなく、見事な白竜様でした。あなたに魔力の一部を分け与えた後、すぐにどこかにお行きになりましたが……」
確かに、不足していた魔力が、外部から補充されている。アドルフが本来持つ魔力より神々しい力を感じる。
すると、セルミヤがどこか悲しげな様子で言った。
「白竜様が教えてくださいました。……あなたにかけられている――奴隷契約呪法のことを……」
「……そうか」
呪法について、あえて自分の口から彼女に話すつもりはなかった。優しい少女にはあまりに残酷な内容だ。アドルフの過去を思い、心を痛めてほしくなかった。
そっと身体を起こし、セルミヤに向かい合うように座った。白いワイシャツのボタンを外し、生地を横に引いた。
(この際だ。俺がウルナー山脈にいる事情をきちんと話しておくべきだろう)
服の下から露になったのは、心臓の上の肌に刻まれた黒々とした呪印と、かつて自分がつけた傷跡の数々。
「この呪印によって俺の全てをエルシア帝国の皇帝、カリスト・エルキエイスに掌握されている。……俺は奇跡的にアルフ山に逃れ、味方が契約を解く方法が見つかるのを待ってる」
「…………」
セルミヤは何も言わなかった。ただ涙を流して唇を震わせながら、手をアドルフの胸に伸ばした。
彼女の手を拒まず、静かに受け入れた。彼女の細くしなやかな指が、呪印に触れる。
「……なさい」
「……?」
「ごめん……なさい。私、なんの力にもなってあげられなくて、ごめんなさい……。不甲斐なくて……ごめんなさい、アドルフ……」
「謝るな、ミヤ」
「――あっ」
セルミヤの腕を引いて、胸の中に抱き寄せた。想像していたよりもずっと小さくて細い。力を入れたら壊れてしまいそうなほどに頼りない体。しかし、この小さな娘にどれほど自分が救われているか分からない。彼女の存在が、自分にとってどれほど大きいか。
「初めてだった。安らぎのようなものを感じたのは。お前は俺が諦めてしまっていたものをあまりにも多く与えてくれた。感謝している。とても」
かつて、両親が向けてくれたものが、アドルフが唯一知る『愛情』だった。
長きに渡り、カリストとの因縁に巻き込まないために他人を寄せ付けないことを選んできた。
暗闇をさまよい、ずっと放ったらかしにしてきたもの。アドルフが欲しくて欲しくてたまらなかったもの。喉から手がでるほど求めてやまなかった愛情を、彼女は惜しみなく注いでくれた。凍りついてしまった心が、優しく溶かされていった。
誰かをこんな風に愛おしく思う日がくるなど、思いもしなかった。愛情の中で過ごす平凡で穏やかな暮らしが、過酷な人生を歩んできた自分にとってはあまりにも特別なものだった。
セルミヤは、貴族としての地位も、生まれ育った国も、あらゆるものを失って身一つとなった。しかし、逆境の中でも純粋で崇高な心を持ち続けた彼女が眩しくて、いつのまにか焦がれていた。
胸に埋めていた顔をそっと上げたセルミヤ。その青く透き通るような瞳には、涙が浮かんでいる。指で雫をそっと拭ってやると、彼女は目を細めて微笑んだ。
「感謝しているのは私の方です。……あなたに会えて良かった」
(俺もだ。ミヤ)
アドルフは、彼女の目元に添えていた指を、名残惜しげにそっと離した。
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