第15話
詠唱を唱え終わると、光が収まり、彼の体に発現していた痣と、辺りに漂っていた瘴気が消滅した。その直後、アドルフの身体がぐらりと揺れた。
「アドルフ……!」
咄嗟に彼の元に駆け寄り、身体を支えようと抱き止める。しかし、アドルフの身体はセルミヤの華奢な身体では到底支えきれず、二人で倒れ込んだ。
「あいたっ」
硬い土の上に尻もちを着き、顔をしかめる。
(やっぱり、魔力も体力も限界なんだわ。あれだけの規模の瘴気を払ったんだもの。アドルフったら、無茶しすぎよ……!)
アドルフは意識を失っていた。セルミヤが庇ったおかげで倒れた拍子に頭を打ったりしなかったのは幸いである。
(そうだ、魔物は……)
ふと、視線を上げ、目の前に佇むそれに目を奪われた。瘴気の中から現れたのは――白竜だった。全身を白い鱗で覆われ、その形はトカゲや蛇にも似ているが、それとは全くもって違う。神々しくて壮麗であった。
(なんて立派なの……竜が伝説上の生物ではなく、実在したなんて)
白竜の金色の双眸がセルミヤを見据えている。神秘的な眼差しに、ごくんと喉を鳴らした。
『娘よ。吾輩の頼みを聞いてくれぬか』
「……なん、でしょうか」
『吾輩の背に、一本の剣が刺さっておる。これによって吾輩は長きに渡り苦しみ、ついには瘴気を放つようになってしまったのだ。……これを、そなたに抜いてほしい』
不思議と、白竜に対して恐怖心などは全く湧いてこなかった。セルミヤは頷き、白竜の背に近づいた。彼が言った通り、鱗に包まれた背に古びた剣が刺さっており、赤黒い血がぽたぽたと滴り落ちている。
『この剣は――魔力を扱う者は決して触れられぬように術がかけられておる。そこの優秀な魔術の使い手の男では、触れることさえできまい』
白竜の近くに横たわっているアドルフを一瞥した後、そっと剣の握りに手をかけた。
「……痛むと思いますよ」
『ああ。構わぬ』
『すまぬな、娘よ』
剣を地面の上に放って、アドルフの元へ駆け寄った。
「……アドルフ」
アドルフの顔の痣は消えており、張りのあるしなやかな白い肌を取り戻していた。浄化が無事に成功したことに安堵しつつ、彼の顔にかかった髪を指でそっと払ってやった。アドルフは、安らかな寝息を立てて眠っている。
『先ほどの浄化で魔力が枯渇したゆえに、体に影響が出たのだろう。瘴気の影響で体力を消耗した状態で、あの規模の浄化を成功させるとは……類まれな逸材であるな』
「……枯渇した魔力は、どうすれば戻るのでしょうか」
『時間が経てば自然に回復するが――よし、ここは吾輩の魔力をちと与えてやろう』
「そのようなことが可能なんですか?」
『いかにも。そなたは見ておれ』
じっと様子を窺っていると、白竜は三本の長い爪が伸びた手をアドルフの胴の上に乗せた。かすか光が広がり、やがて消失する。
『…………ううむ』
白竜は腕をアドルフに乗せたまま、神妙な面持ちで思案していた。
「どうかなさったのですか?」
『魔力の供給は完了した。しかしだな……この男は――』
「…………?」
白竜は腕を下ろし、また小さく唸った。そして、頭部をこちらに向けて続けた。
『吾輩は全てを見透す竜。――そなたに一つ、教えてやろう』
「……私に、ですか?」
『ああ。今、この男に魔力を移動する際、吾輩の神聖な魔力が奴の胸部に行くことを拒んだ。この男の胸に、強力な悪しき力が存在しているためだ。……この男は、非常に強力な奴隷契約呪法により支配を受けておる。契約者の言葉は絶対遵守。抗おうとすれば肉体に壮絶な苦しみが襲う。非道を窮めた禁呪だ』
白竜から聞かされた衝撃の事実に絶句した。
(……そんな)
魔法の中でも、非人道的で危険なものを、呪法と呼ぶ。呪法はどんな理由があっても行使することを禁止されており、実践方法が書かれた魔導書を所有することさえ厳しく罰せられる。まさか、かの世界の英雄が禁呪に縛られているなんて、誰が予想できるだろう。
点と点が一つの線になるように、アドルフに対して抱いていた違和感が、恐ろしい事実により紐解かれていく。
彼は、どう見ても好き好んで非道を犯すような人物ではなかった。無愛想ではあるが、本質は思いやりと慈愛があり、とても冷酷無慈悲という噂が信じられなかった。それが、何者かの命令で、強制されて行動していていたとしたら、全てが腑に落ちる。
彼がへんぴな山で暮らしていた理由。それは、契約者の支配から何らかの方法で逃れ、見つからないように身を潜めていたのだ。
軍人時代に誰にも心を開かなかったのは、呪法で支配されている身で、誰も危険に巻き込まないようにするためだろう。
まざまざと思い知った。誰にも心を許さず、孤独の中で生きることを選んだ彼の葛藤と逡巡を。そして、彼がどれだけの苦しみや悲しみを抱いて生きているかを――。
「なんて……なんて恐ろしいことを……」
涙は一滴たりとも流れなかった。悔しさや怒り、哀れみ、色んな感情が込み上げてぐちゃぐちゃになり、それは沸騰した泡のように消えていき、残るのは焦燥感だけだった。
『その男の胸に、黒い呪印が刻まれておるのが
「…………!」
『契約による屈辱から逃れたかったのだろう。だが、契約者から『死ぬな』と命じられておったようだ。命令に抗おうとするせいで肉体に壮絶な苦痛が襲い悶え苦しみ、それでもなお刃の切っ先を胸に突き立てる若いころの青年が視え――』
「もうやめてください! それ以上、聞きたくありません」
顔をしかめ、声を張り上げた。
胸が塞がってしまいそうだ。もうこれ以上、辛い過去を暴いてほしくない。
震える手で、アドルフの温かい頬をそっと撫でる。
彼の苦しみを、何も気づいてあげられなかったことが悔しくてたまらない。無力な自分では、彼のためになんの役にも立てないことが情けない。
セルミヤが彼の傍らに座り俯いていると、白竜が言った。
『娘よ。手を出すがよい』
白竜に言われた通りに手を差し出した。すると、手のひらに無色透明の玉を渡してきた。
「これはなんですか?」
『必ずやいずれ、そなたの役に立つ。助けてくれた礼に受け取ってくれ』
「は、はい。ありがとうございます、白竜様」
白竜はセルミヤに玉を手渡すと、宙へ浮いた。
「……もう、行かれるのですか?」
『ああ。その男はじきに目覚める。安心せよ』
「はい。白竜様も……どうぞお気をつけて」
『うむ』
白竜は洞窟の入口の方へと飛んでいき、最後にセルミヤの方を振り返って言い残した。
『全てを見通す竜が――もうひとつ教えてやろう。その男の傷を癒すのは、紛れもなく――そなたとなるだろう。その男は、多くの罪を犯した。望まなかったとはいえ罪は罪だ。だが、そなたとともにあれば、やがてその罪も許されるだろう』
(……私が、アドルフの傷を、癒す……?)
言われた内容に、あまりピンと来ない。ただ呆然と、優雅に長い胴をひらめかせて浮遊する白竜の後ろ姿を見送ることしかできなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます