第14話

 

 樹木の隙間を朝の水気を含んだ清々しい風が吹き抜け、土や植物は香り立っている。

 道ならぬ道をなんとか踏み歩き、北へ向かった。


 途中――茂みの奥からガサリ……と音がして身をすくめた。


「きゃっ……」


 セルミヤと同じほどの背の高さの獣がこちらを睨みつけ、低い唸り声を上げている。猛々しい二本のつのを持つそれは、鹿型の魔獣であった。


(どうしよう、襲われる……っ)


 魔獣がじりじりと距離を詰めてきたとき――。


「…………!」


 セルミヤの胸を飾る守護石が煌々こうこうと輝いた。魔獣は忌々しそうに目をすがめ、退散していった。獰猛な見た目の魔獣が、この石の力であっさりと逃げていった。それだけ、この石が強力な保護の力をまとっていることを理解する。

 アドルフが注いだ温かな魔力を服の生地を通して肌に感じ、目頭が熱くなった。


(アドルフが私のことを守ってくれたのね。ありがとう)


 守護石に感謝の思いを送り、再び歩みを進めた。


 およそ一時間歩いたところで、灰色の岩壁が見えた。ぽっかりと大穴があいており、奥が空洞として続いている。恐らくはここがアドルフが言っていた洞窟だろう。アドルフ・シュグレイズは、天才と謳われる魔術士だ。これまでいくつもの修羅場を通ってきた彼でも対処できないほどの何かが、この奥で起きている可能性がある。


 しかし、洞窟に足を踏み入れることになんのためらいもなかった。洞窟へ入り、ランタンの明かりを灯して前にかざした。


 先にいくほど暗く、結構な奥行きがあるように見えた。湿っぽくて、地面や岩肌にこけが生えている。遠くにコウモリの羽ばたきが聞こえた。


 ランタンで照らしながら奥へ奥へと進んでいくと、違和感に気づいた。


(……煙? いや、違う。これは……瘴気しょうきだわ)


 禍々しい気配とともに、黒い霧状のものが辺りを包み込んでいる。それは、魔物から稀に発生する瘴気だった。瘴気にあてられると、病気を引き起こしたり最悪の場合、命を落とすことがある。


 ポケットにいれていた薄手のグローブを手につけ、鞄から布を取り出して口と鼻を覆った。できる限り瘴気に触れないよう、更に奥へと歩みを進めた先に人が倒れていた。


「アドルフ…………っ!」


(気がつかないうちに瘴気にあてられたんだわ……!)


 アドルフはぐったりとした様子で倒れていた。息も弱々しく、額に脂汗をかいている。少なくとも、昨日の午前から一日中瘴気の中に身体を晒しているということだ。普通であれば大変危険な状態である。


 彼の半身を起こし、膝の上にもたれるように乗せて、頬を叩いた。


「アドルフ! アドルフ……! しっかりしてください!」

「…………っ」


 意識はかすかにあるようだったが、セルミヤのことを認識しているかは分からない。顔の辺りまで、瘴気の影響を受けた黒い痣が広がっている。

 この痣は、以前本で見たことがある。瘴気を受けた者の特有の症状だ。今彼に必要なのは光の魔術による浄化。しかし、セルミヤにそのような力はない。


 鞄を漁り、青色のポーションが入った小瓶を取り出して蓋を開けた。


「気休めにしかならないかもしれませんが、これを飲んでください」


 片手で彼の頬を支え、飲み口を彼の唇に押し当てた。アドルフは朦朧とする意識の中でセルミヤの言葉に従い、それを飲み込んだ。


 喉仏が上下するのを見て、少し安心した。少しずつ、彼の意識が戻ってきた。虚ろだった深藍色の瞳に生気が宿る。しかし、黒々とした痣は依然残ったままだ。


「ミヤ……。なぜお前がここに? 怪我は……してないか?」

「今は私のことはどうだっていいです。……アドルフは一日瘴気の中で倒れていたんですよ! 瘴気による痣も出ています。どうかご自身に浄化を……!」


 セルミヤはアドルフの体を揺すって懇願した。アドルフは自分の顔の前に手のひらをかざし、肌の痣の具合を確認してゆっくりと息を吐いた。


「俺としたことが、油断していたようだ。瘴気ですぐに意識を失っていたらしい。……これはかなり強力な瘴気だな。……すぐに浄化をはじめる」


 そう言って上半身を起こしたときだった――。


『ウオオオオオオォォォォーーーー!』


 咄嗟にセルミヤを庇うように抱き寄せて、叫び声の方へ目を向けるアドルフ。けたたましい咆哮が洞窟の中に響き渡る。反響する音が静まるころ、重低音の声が奥からした。


『助けて……くれ…………』

「……?」


 アドルフは警戒し、瞬発的に防御魔法を唱える。彼の手の先に、シールドが展開された。


『頼む……浄化を……吾輩にも…………』


 瘴気を放っている黒々とした塊が、こちらに訴えている。


「……魔物が言語を話しているの……? そんなことがあるんですか……?」

「そのような話は聞いたことがないな……いや、伝説では、神格に近い存在は言葉を話し人と意思疎通をはかることができるというが……」

「では、あの瘴気をまとっているものは、魔物ではなく、神格級の何かであるということでしょうか?」

「分からない」


 セルミヤはアドルフと顔を見合せた。アドルフはしばしの沈黙の後で、瘴気を放つ生体に言った。


「その瘴気を浄化してやることは可能だ。だが、浄化した後に俺たちを襲わないと約束できるか?」

『ああ。天に誓おう』


 彼は頷いて立ち上がり、こちらを見下ろして言う。


「今からこの生体ごと浄化を行う。相当な邪気だ。膨大な魔力を使うことになるが……」

「アドルフは今、普通の状態ではありません。そんなに魔力を使って平気なんですか……?」

「…………」


 沈黙で返される。つまり、平気ではないということだ。しかし、助けを求められては、彼の性格上放っておくことができないのだろう。アドルフは本当にどこまでも人が良い。


「浄化を行う前に、お前を家に転移させる」

「嫌です!」

「……ミヤ」

「その生き物が悪い存在でないという確証はないんです。どうしてアドルフを置いて私だけ逃げなければならないんですか……! 絶対絶対、お傍を離れたりしませんから……っ!」


 彼の腰にぎゅっと抱きつき、是が非でも離れたくないのだと主張すると、上からため息が聞こえた。


「ったく、しょうがない奴だな。恐らくこれは魔物ではない。悪意のようなものを俺は感じない。分かったからミヤ、少し離れてろ」

「分かりました。どうか、無理だけはなさらず」

「ああ」


 指示に従い、離れた場所で見守ることにした。


「……浄化を始める」

『ああ。頼む…………』


 アドルフは低く涼やかな声で詠唱を始めた。


(……本当に、綺麗)


 黒い生体とアドルフの足元に、巨大な魔法陣が発現し、青白い光が二人を包み込んでいる。暖かな風が吹き、アドルフの絹糸のような銀髪がゆらゆらとはためく。瘴気をまとった生物を目の前にしても、一切臆さない峻厳たる佇まい。真剣な眼差しも、呪文を紡ぐ形の整った唇も、外套の裾がひるがえる様も、何もかもが洗練された美しさがある。


「……これが、『美しき英雄』――アドルフ・シュグレイズ」


 セルミヤは目の前の光景に息を飲んだ。

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