第13話
一体どのくらいの時間眠っていたのだろうか。気がつくと、窓の外は日が高く登っていた。しばらく休んだおかげで体調も少し回復したようだ。
ベッドのサイドテーブルに置いた空のマグカップを手に持って、厨房に片付けるために階段を降りた。ダイニングルームにアドルフはいなかったが、彼の椅子の背もたれに上着がかかっているので、帰宅はしていると分かった。
「……あれ?」
チェストの隣に並ぶ本棚に、視線が留る。
マグカップを一旦テーブルに置いて、本棚の近くまで歩む。この木製の背の高い本棚は、アドルフとセルミヤの共有ブースになっている。彼は、セルミヤが退屈しないように街に出かけると流行りの小説や、学問書の類いを購入してきてはここに収めてくれる。気まぐれに、魔術についてやエルシアの歴史文化など、勉強を教えてくれることもあった。もっとも、セルミヤに勉学の素質はなかったが。
初めて見かける薄い本をおもむろに手に取った。
(……新しい本? 今日買ってきたのかしら)
今日は無理をせず、横になって一日を過ごすつもりだ。これはいい退屈しのぎになると思い、マグカップを厨房のシンクに片付けた後で、本を片手に自室へと戻った。
――その四時間後。
(衝撃だわ……!)
青ざめた顔でさっと本を閉じた。セルミヤに衝撃を与えた本の内容は、流行りものの小説などではなく――性教育本だった。性教育といっても、学術的な内容ではなく、子ども向けの絵本のような親しみやすさで、子どもが生まれる秘密や、思春期に男女に訪れる心身の変化などの知識が、図と共に分かりやすく説明されている。
今、自分の身体に起きている不調に関しても正しい知識と対処法が記載されている。アドルフが、初潮を迎えたセルミヤのためにこの本を買ってきたのだろうが、生々しい内容がショックだった。
(家では、こういうことを誰も教えてはくれなかった。……私、何も知らないまま、アレックス殿下と婚姻を結ぼうとしていたなんて……)
好奇心から最後まで読み終えてしまったものの、見てはいけないものを見てしまったようないたたまれない気分だった。
小窓から夕陽が差し込んでいる。サイドテーブルの照明の明かりを灯した。
本を片手にベッドから立ち上がった。決して音を立てないように、慎重を極めて階段を降り、ダイニングへ向かう。こんな本を持ったままアドルフと鉢合わせでもしたら大変だ。羞恥心で卒倒してしまうかもしれない。
彼女は薄暗くなった部屋をきょろきょろと見回し、アドルフがいないことを確認して本棚の前に立った。――すると。ギシ……と木が軋む音が耳を掠め、ダイニングの右隣のアドルフの部屋の扉が開いた。
なんとタイミングの悪いことか。セルミヤは驚いた拍子に手を滑らせ、肝心
(わっ、ど、どどどうしよう……アドルフに見られて――)
アドルフは扉に肩を預けるように寄りかかり、腕を組みながらこちらを凝視している。そして――不敵に口角を上げて言った。
「へぇ、それを読んだのか?」
セルミヤの羞恥心を理解してからかっているのだ。床に転がった本は確かな証拠だが、意味がないと分かった上でふるふると首を横に振って否定した。
「よ、読んで……いません」
彼はつかつかと無遠慮にこちらに近づき、足元に落ちている本を拾い上げて棚に戻した。顔を真っ赤にして立ち尽くすセルミヤを尻目に、アドルフはダイニングの椅子に掛けてあった上着を取った。そして、自室の扉に手をかける。
彼が扉を引こうとしたとき、セルミヤは咄嗟に思いもよらぬ言葉を口走ってしまった。
「……アドルフは……経験がおありなんですか」
もちろんこれは、閨事の経験の有無についてだ。自分はなんと破廉恥なことを尋ねてしまったのだろう。口をついて出た問いに、自分でも驚く。顔が熱くなり心臓が早鐘を打っている。
(私、アドルフに何聞いて……)
アドルフの手がぴたりと止まり、こちらを振り返った瞳には驚きが滲んでいた。こちらが何を尋ねているか理解しているようだった。
しかし、すぐに余裕たっぷりの表情に戻り、セルミヤをからかうように小さく鼻で笑った。
「さぁな」
自室へ戻っていったアドルフを呆然と眺め、セルミヤは体の力を失くしてその場にぺたんとへたり込んだ。曖昧に笑ってはぐらかされたが、彼は大人だし、容姿も地位も文句のつけどころがない元エリート。相手に困ったことはないだろう。そう思うと、妙に胸がざわついた。
◇◇◇
翌日。
セルミヤは、ダイニングのテーブルで、せっせと栗の皮を剥いていた。ひと晩水につけておいた栗の鬼皮を手で剥いていく。一部は渋皮のまま煮物に。残りは渋皮も包丁で丁寧に剥いてペースト状にして、お菓子に混ぜるつもりだ。
膝には毛糸のブランケットを掛け、腹部をできるだけ冷やさないようにする。月のもののときは、腹部を温めるのが良いと――例の本に書いてあった。鉄分やビタミンが不足しがちらしいので、今夜はほうれん草と肉の炒め物を作ってみるつもりだ。
栗の下ごしらえを若干の鼻歌交じりで行っていると、アドルフが部屋から出てきた。いつも無造作に下ろしている髪を、今日は片側で束ねている。いつもとは違う、涼し気な雰囲気がある。
「今日もお出かけですか?」
「ああ。この家から真っ直ぐ北に向かうと、洞窟がある。今日はそこで薬草を採集してくる」
「薬草……?」
「ダリンツヅラフジという。胞子体で繁殖するシダ科に分類される植物で、日当たりが悪く湿り気のある場所に生息するんだ。鎮痛や解熱の作用がある」
鎮痛――と聞き、セルミヤのために薬を作ってくれるつもりなのだと理解した。
「午前のうちに帰る。守護石をちゃんと身につけておけ」
「はい。言われた通り、アドルフ不在のときはいつも身につけています」
チェストの上の小物入れに収めてある、白い
「気をつけて行ってきてくださいね。栗の甘煮を作って待っています」
「ああ。楽しみにしておこう」
取るに足らないやり取りの後、アドルフをいつも通りに送り出した。しかしこのとき、後に起こる事態を予想だにしなかった――。
◇◇◇
アドルフは、昼になっても日が暮れても家に戻ってくることはなかった。
(こんなこと、未だかつて一度もなかったわ。どうしよう、アドルフの身に何かあったら……私……)
彼のことが心配で心配で仕方がなかった。夕陽が沈んでいくつかの間を、こんなにも恐ろしく思ったことはない。
日が沈みきったとき、決心した。
(……夜が明けたら、北の洞窟に行こう。夜の森は視界がはっきりしないし、魔物が活発だから危険すぎる。朝まで待たなくちゃ……)
鞄にランタンやナイフ、アドルフの部屋から引っ張り出してきたポーションを詰め込んだ。セルミヤは、ポーションの多くの効能を見分けることはできないが、治癒用のポーションと、普通の治癒力を上回る青のポーションは記憶に新しいので見分けがついた。保存が効きそうな食料と、皮袋の水筒も詰める。
一分一秒が、人生の中で最も長く感じられた。ただ、静まり返ったダイニングで、彼の帰りを祈るように待った。けれど、祈りは虚しく彼は帰ってこなかった。
(どうかご無事で、アドルフ。お願い、どうか無事でいて……)
一睡もできないまま不安な夜は過ぎ、日が登り始めた。髪を後ろで束ね、コートを着てフードを深く被った。森の中で肌を晒していると、虫に刺されたり植物で肌を傷つけたりするからだ。玄関の外に出ると、辺りがほんのりと明るくなっていた。アドルフが厳重に張っていた透明な結界が青白くなり、脆く崩れているのが目視できる。――術者であるアドルフ自身に何らかの危険が刺し迫り、結界が維持できなくなっているのだ。
その事実に、ふらりと目眩がしたが何とか踏ん張り、結界の隙間を
「……アドルフ」
首から吊り下げた守護石をぎゅっと握りしめ、小さく呟いた。
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