第8話
外出の誘われて、ついわくわくして心が落ち着かない。ゆっくりと息を吐き、逸る気持ちを抑えて尋ねた。
「い、いいんですか? 私が行ったらお邪魔になるんじゃ……」
「構わない。嫌ならいいが」
「いいえ! いいえ、行きたいです……! 行きます!」
まるで、散歩に連れて行ってほしい子犬のように興奮気味に身を乗り出すと、アドルフは眉を寄せた。
「騒がしい奴だな。分かったから少し落ち着け」
「ご、ごめんなさい……。つい浮かれてしまって」
しゅん、と肩を落として椅子に座り直した。アドルフの目には、彼女の頭に垂れ下がった子犬の耳の幻が見えていた。
何しろ数ヶ月ぶりの外出だ。浮かれてしまうのも無理のないことではないか。
「まぁいい。早く支度して来い」
「はい! ただちに、すぐに、速やかに、迅速にしてきます……!」
「ったく」
がたんと椅子から立ち上がり、支度をするために自室に戻った。もたもたしていてアドルフの気が変わっては大変だ。しかし、これといって必要な物も思いつかないので、白のワイドブリムの帽子を手に、階段を降りた。
荷物を持ったアドルフがほどなくして部屋から出てきた。いつも着ている黒いローブを身にまとい、髪と瞳の色を魔法で黒色に変えている。『美しき英雄』と呼ばれていた時代には、短髪だったらしいので、長髪というだけで印象がだいぶ違うのだと思う。
「さぁミヤ。手を」
帽子を目深に被り、脱げないように手で抑えながら、片手をアドルフの手に乗せた。彼の声が呪文を唱え始めると、足元に転移陣が展開していく。アドルフが作り出す陣はいつみても精密で綺麗だ。
気がついたら景色が変わっていた。
一面に広がる――緑。
「わあ……! 木しかないですね!」
「山だからな」
アルフ山で普段見ている景色とさして変わり映えしないが、ぽつりぽつりと民家や畑、放牧地が見える。人が暮らしている気配は、今のセルミヤにとって新鮮だった。
アドルフの後ろについて、
「ここはエルシアの未開発の山村地域だ。前回来たときに、安全は確認している」
「のどかな雰囲気があって都市とはまた違う魅力がありますね。どんな人たちが住んでいるんでしょうか」
「穏やかな気質の人が多いように感じるな」
「そうなんですね」
しばらく歩くと、民家がいくつも立ち並ぶ集落に着いた。道で世間話などしていた人たちが、アドルフの姿を見てこちらに集まってくる。
「グレーさん。またいらしてくださったんですね! いただいた魔法薬が素晴らしくて、膝を悪くしていた祖母が歩けるようになったんです!」
「うちの旦那もその薬で腰痛がすっかり治っちまったんだよ。たまげたもんだね」
(グレーさん? 偽名を使ってるのかしら)
村人たちの歓迎ぶりは驚くほどであった。特に女性たちは、美しいアドルフに対して羨望にも似た眼差しを向けている。彼らの歓迎ぶりを見るに、アドルフの薬の効果はよほど素晴らしいものだったと分かる。
アドルフは表情の機微に乏しいものの、丁寧に受け答えていた。
「今日は、顔に火傷の傷跡がある少女を診にきた。どなたか、彼女の家をご存知だろうか」
その問いに、村人たちは顔を見合わせた。皆が険しい表情をしている。
「村長さんとこの娘のドニのことだろう。あれは気の毒な子だ。……村長夫婦は、大事な一人娘の怪我を治してやろうと思って、家財を投げ打って色んな治療を試したんだが、手の尽くしようがない酷い怪我でなぁ……」
「本当、まだこれからっちゅうのに可哀想だねえ。村一番のべっぴんさんだったのに、家の外に出られんくなっちまって……」
顔に目立つ怪我を負えば、好奇が集まったりする。以前と変わらず出かけたりして生活するのは難しいだろう。
村人たちに案内され、そのドニという少女が住む村長宅を訪れた。
(ここが、村長さんの家……?)
セルミヤがこの村で見てきた家の中で、特にみすぼらしい様子だった。木造の小さな建物で、 壁は
「グレー様にお連れのお嬢さん。わざわざこんな場所まで、よくおいでくださいました」
出迎えてくれたのは、初老で細身の男性だった。彼の隣で、女性が恭しくこちらに頭を下げた。恐らく彼らが村長夫妻なのだろう。家の中も大変簡素で、家具も少なく飾り気がない。節々に貧しさが感じられる。
先ほどの村人たちの『大事な一人娘の怪我を治してやろうと思って、家財を投げ打って色んな治療を試した』という話を思い出した。この人たちは、娘のために財産を投げ打って、治療の為の金を捻出していたのだと思う。両親の娘への愛情に、ぎゅうと胸が締め付けられた。
「ミヤ。俺はドニの両親と先に話がある。ドニという少女に――早くこれを渡してやってくれ」
そう言って懐から出したのは、今朝彼の部屋で見た青いポーションが入った小瓶だ。村長は、こちらを見て優しく言った。
「そこの奥の部屋です。どうか、娘の姿を見ても、驚かないでやってください」
「はい。心得ております」
セルミヤは頷き、受け取った小瓶を手にドニの部屋に行った。
薄い板の扉が建付けられている。
ノックをすると、どうぞ、と中から返事が返ってきた。そっと引き戸をずらして部屋に足を踏み入れた。
(……この子が……ドニ)
思わず息を飲んだ。
部屋の奥で、簡易的な寝台にうずくまるようにして座っていたのは、想像を上回るほど
顔は火傷によって原型を留めていない。怪我そのものは治っているらしいが、癒えた肌が、溶かした蝋をそのまま固めたように歪に変形してしまっている。そして髪の毛は、部分的にしか生えていない。瘢痕性の脱毛症状だろう。火傷が治った後に傷跡が残り、毛根組織が破壊されてしまったのだ。
(気の毒に……)
「初めまして、ドニさん。突然お邪魔して申し訳ありません。あなたの傷を治す薬を預かって参りました」
ドニの元へ歩み、ポーションの入った小瓶差し出した。しかし、彼女は憎しみを含んだ表情でこちらを睨みつけ、セルミヤの手から小瓶を奪い取って、壁に思い切り投げつけた。
「な、何を――」
パリン……と音を立ててガラスの瓶は割れ、中の液体が床に溢れ出た。セルミヤは唖然と立ち尽くした。
「そんなもの飲むもんか! ちょっと前に来たインチキ薬師の薬だって、あたしのこの傷にはちっとも効きやしなかった。今までだってそうさ。この傷は……あたしの傷は、もう治りっこないんだよ。もう……ほっといてくれよ……」
顔を覆って泣き始める彼女。悲痛な心の叫びに、かける言葉などひとつも見つからない。あまりにも残酷で、救いようのない悲劇が、自分と変わらない年頃の娘を苦しめている。
(そうよね。とても……辛いわよね)
婚約破棄に追放され、自分が世界で一番不幸なのではないかと思うくらい打ちのめされていた。でも、自分が知らないだけで、辛いことは世界に沢山溢れているのだ。
彼女が傷のことで、どれだけ嘆いてきたか分からない。何も知らない自分には、容易に励ましの言葉など口にできるはずがなかった。
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