第6話

 

 セルミヤは、私室として与えられた二階の部屋で、簡易ベッドからぼんやりと窓の外を眺めていた。

 街灯などの人工的な光がないので、星がいつもよりずっと近くに見える。一際大きく輝く月の淡い光が、アルフ山を照らしている。


 木枠のガラス窓を押し開いて、身を乗り出した。鈴を転がすような虫の鳴く声が鼓膜を震わせ、夜の冷えた風が頬を撫でていく。


(……私、本当にウルナー山脈に来たんだわ。都市から遠く離れた山奥に……)


 ひとまずの生活の拠り所が見つかり、本当に良かったと思う。アドルフ曰く、この山を降りても人里ははるか遠くらしい。もし彼に助けてもらっていなかったら、この魔物の巣窟にたったひとりで彷徨うことになっていた。そう思うと、背筋がゾッとする。


 ふと、脳裏にアレックスや両親のことが思い浮かんだ。国外追放を言い渡してきた横暴極まりないアレックスはさることながら、簡単に娘を見捨てた両親も薄情な人たちだ。


「…………っ」


 頬に涙が伝った。次から次へ、とめどなく涙が零れていく。


「……ひどいわ……っ。アレックス殿下も、お父様もお母様も、みんな、ひどい…………っ。私、ずっと頑張っていたのに、こんな仕打ちはあんまりじゃない…………」


 ただただ、悔しさと悲しさが荒波のように心の内にこみあげてくる。セルミヤは泣き続け、眠れない夜を過ごしたのだった。



 ◇◇◇



 翌朝。

 寝不足で重い身体を引きずるように、階段を降りてダイニングルームへ行くと、アドルフがテーブルに朝食の準備をしながら言った。


「おはようミヤ。昨夜ゆうべはよく寝れ…………なかったようだな」

「おはようございます。……えっと、はい。実はあんまり……」


 アドルフはこちらの顔を見て苦笑していた。昨夜は散々泣き続け、瞼は真っ赤に腫れ上がり、目の下にクマができている。


「椅子に座れ。ちょっと待ってろ」

「……? は、はい……」


 言われるがままに木製の椅子に腰を下ろした。座面は真ん中がくぼんでおり、ハイバックは緩やかな丸みを帯びていてしっかりと背中を支えてくれる椅子だ。この部屋の家具は、木製のアンティーク家具で統一されており、温かみがある。


 自室へと戻り、ガラス細工の小瓶を持って帰ってきたアドルフ。ガラス瓶の中に、赤みがかった液体が入っている。それを受け取り、小首を傾げた。


「……これは?」

「疲労と気力回復のポーションだ」

「……! ありがとうございます」


 お礼を言いながら小さく微笑み、小瓶の蓋を開けた。液体を口に含むと、ツンと舌を刺す苦味と、化学的な風味が鼻腔に広がる。効果は抜群で、ポーションを飲み終えると、連日の過度な肉体的、精神的疲労がすっきりと解消した。


「どうだ? 気分が少しはマシになっただろう」

「はい。身体がとても楽になりました」

「それは良かった」


 彼は空の瓶を受け取り、もう片方の手をセルミヤの顔へ伸ばして言った。


「少し目を閉じてろ」

「……? はい」


 言う通りにして身構えていると、大きな手に瞼を覆われた。――直後、暖かな光を瞼に感じる。


「もういいぞ」


 そっと目を開けると、腫れていた瞼がすっきりと軽くなっていた。治癒魔法をかけてくれたのだと理解する。そっと目元に指を伸ばして確かめてみると、ひりひりとした痛みも引いていた。


「何から何まで親切にありがとうございます」

「礼なんていいさ。それより、さっさと朝餉を済ませるぞ。今日はお前に一通り家事を教える。毎日こなしながら、少しずつ覚えていくといい」

「わ、分かりました。よろしくお願いします」


 二人でテーブルを囲い、昨晩の残りのスープにパンを食べた。


 それから外に出て、水汲み場での洗濯、鶏の飼育法、畑の管理について、実践しながら説明を受けた。これまでは、家のことも身の回りのことも全て使用人に任せていた。家事の大変さを身をもって知ったことで、かつて自分たちのために働いてくれていた使用人たちへの敬意を抱いた。


 家の仕事を学ぶうちにすっかり日は落ち、昨日と同様に、厨房で夕食作りを見学させてもらった。


 今日のメニューは、シシ肉の煮込み料理だそうだ。

 冷凍の箱から、凍った肉塊が登場し、アドルフが手際よくそれを処理していく。くし切りにした玉ねぎ、薄切りのきのことにんにくを鍋に入れ、肉と一緒に焼き目が着くまで焼く。


 にんにくが香り立ち、食欲をそそる。

 続いて、鍋の中に赤ワインを注ぎ、香辛料を加えながら煮込んで完成だ。セルミヤは、彼が取り分けてくれた皿を運びながら考えた。


(やっぱりこの食材、どこで調達してきているのかしら? にんにくは家庭菜園にはなかったはず。野菜はともかく、ワインは自家製ではないでしょうし……)


 テーブルに料理を置き、アドルフを待っていると、彼は一度自室に戻って、手に何かの紐を引っさげて持ってきた。


「お前にこれをやろう」


 手渡されたのは、柔らかな鹿革紐に、白い石が通してあるものだった。


「ペンダント……ですか?」

「お守りみたいなものだ。俺は外出することが多い。その石にまじないをかけておいたから、俺の不在中にも安全を護ってくれるだろう」

「外出なさるんですか?」

「ああ。買い出しで遠方の町にな。あとはまぁ……諸用だ」


(なるほど)


『買い出し』と聞いて、食材の品ぞろえの良さと、やけに豊かな生活にようやく納得した。転移魔法を使える彼なら、遠方の町に出かけるなど造作もないことだろう。


 渡されたペンダントを首から吊り下げる。かの天才魔術士がかけた守護魔法であれば、これ以上なく心強いお守りだ。


「ありがとうございます。大切にしますね」

「ああ」


 食卓に二人揃ったので、さっそく食事を始めた。丁寧な手つきでシシ肉にナイフを入れて、口に運ぶ。


(わあ……柔らかくて美味しい……!)


 赤ワインで煮込んであるので、シシ肉の獣臭さなどは全くなく、口の中でほろほろと溶けていく。野菜の旨味も染み込んでおり、味付けは完璧だった。


 アドルフは、興味深そうにこちらの様子を眺めて言った。


「お前は本当に美味しそうに食うな」

「アドルフの料理が美味しいのはもちろんなんですけど、誰かと一緒に食べるご飯って、一層特別感があって……」


 ラインレッツ家にいたころは、家族と食事を摂る習慣はなかった。いつも独り部屋で、運ばれてきた食事を食べていた。


「他人と食事をしてこなかったのか?」

「はい。いつも一人でした。家族とは少し、折り合いが悪かったので」

「そうか」


 黙々とシシ肉を口に運んでいると、彼が言った。


「俺と同じだな」

「え……?」

「俺もずっと――一人だった。こうやって誰かと食卓を囲うってのも、案外悪くないものなんだな」


 セルミヤは瞳をしばたたかせた。アドルフは『美しき英雄』と名高く、多くの人に慕われ、尊敬されてきたはずだ。賑やかな食事をごく普通に経験してきたものとばかり思っていた。


 セルミヤは同情と共感を胸に抱き、そっと目を細めて笑いかけた。


「ふふ、お揃いですね。私、アドルフに喜んでもらえるような料理を振る舞えるように頑張りますから、どうぞ首を洗って待っていてください!」

「……それを言うなら、『首を長くして』だな。ったく、ミヤが腕を上げるまで俺はどれだけ待たされるやら」

「少しずつ覚えていくといいって言ってくれたじゃないですか。私、要領は良い方なので、地道に頑張っていきます。塵も積もれば三年で石を穿つと言いますし」

「…………要領は良いのかもしれんが、少なくとも頭は悪いようだな」

「?」


 かくして、追放令嬢セルミヤと、天才魔術士アドルフ・シュグレイズの同居生活が始まったのだった――。

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