夏休みのバイトが終わった瞬間、もう二度とやるかと心に決めかけていたのだが、

「ありがとね。ほんと、助かったよ」

 優子の労いの一言が心に引っかかったのか。度々旅館の手伝いを頼まれては、わかった、と二つ返事で引き受けるようになった。

 相も変わらず上司の黒沢にはよく注意され、へこむ。しかしながら繰り返せば繰り返すほど勘所みたいなものは身に付いていくもので、最初期にあったような道の間違いは無くなり、膳を落とすことなども減った。

「ちょっと、筋肉がついたんじゃないの?」

 休憩時間がたまたま会った際に優子に指摘されて、以前より疲れなくなったことに気付かされた。続けていけばきっと今よりももっともっと良くなるはずだ。未来への期待が次第に気持ちを強くしていった。

 もっともっと優子の力になれれば。そんな欲も膨らんだ。


 同じ年の冬休み。旅館の最上に位置する五階の奥の間に膳を持っていくように命じられた。

「くれぐれも失礼がないように」

 書き仕事をこなしながらそう口にする黒沢は、どことなく不安げだった。年上の女性の仕草に珍しいこともあるものだと首を傾げつつ奥の間を訪れると、

「おや、君は」

 青い甚平を着た無精髭の若い男が、煙草を咥えたまま原稿用紙とにらめっこをしていた。

 たしか安田と言ったか。優子に名を聞いてからというもの度々すれ違ってはいたが、こうして二人きりで面と向かって顔を合わせるのは初めてだった。

 高端と言います。頭を下げる雄太郎に安田はぼさぼさの髪の毛を掻きつつ、

麗衣れいが来ると思ったんだが」

 と漏らした。

 レイ? と疑問に思ってすぐ、黒沢の下の名前だと思い出す。何か用があったのだろうかと思い、呼んできましょうか、と伺いを立てた。

 優子はどこか警戒するような目で見ていたが、旅館内で頻繁に出くわす人物なうえに、先程の黒沢の反応からしても特別なお客様であるのは間違いない。である以上、本人の要望はできうるかぎり聞いた方がいいだろうと雄太郎は判断した。

 安田は、いいや、と首を横に振り、

「他意はないんだ。ここのところ麗衣が俺の担当だったから。たまには男同士というのも悪くない」

 などと言ってから広縁の向かい側の席を手で示した。座れ、ということらしい。まだ、仕事中である雄太郎が迷っていると、

「麗衣にはこっちから取りなしておくから、安心してくれ」

 と告げ、さあ、と今再び座れと促される。そこまで言われれば断るわけにも行かず、失礼します、と向かい側に腰を落ち着けた。慣れない煙草の臭いが気にかかった。

「高端君は高校生?」

 はい。

「そんな年からがんがん働いてるのは尊敬するな。ぐうたらな性分としては見習いたいものだ」

 お……僕自身はどっちかといえば、手伝いです。

「手伝いっていうと、優子ちゃんに頼まれたとか」

 はい、そんな感じです。頷いた雄太郎に、安田は、そうか、とどこか眩しげなそれでいて楽しげな表情を浮かべた。

「俺は物書きの端くれでね。女将さんのご厚意で居候させてもらっている。そんな感じでだらだらここに居続けてるだけに、優子ちゃんには、寄生虫みたいに見られていてね」

 これは優子との間を取り持ってて欲しいということだろうか? そんな予想とともに面倒なことになるかもしれないと思う雄太郎の、

「とはいえ、優子ちゃんの気持ちも、俺なりにわ心得てはいるつもりだ。今はどうこうするつもりはない」

 心を読んだかのような物言い。ほっとしながら、今は、という言葉がほんの少し引っかかった。

 物書きと言いましたが、どんなものを書いてるんですか? 聞いてからすぐ、遠回しに口にしたということは、あまり言いたくないのかもしれない、と遅れて思い当たるが、

「大雑把に言えば恋愛小説かな」

 予想に反して躊躇いのない答えが返ってきた。

 恋愛小説。あまり、本を読まない雄太郎にとって縁遠い世界の話だった。

 安田は、今書いてるものがなかなかまとまらなくてねと愚痴るように呟いてから、

「いっそ、別の小説の番外編から終わらせようかなと思いはじめている。そこは、筆のノリとお相手さん次第かな」

 どこか忌々しげに、それでいて楽しげに告げる。

 安田の物言いをあまり理解はできていなかったものの、いい小説が書けるといいですね、と励ましの言葉らしきものを送る。自称恋愛小説家は、ありがとう、と嬉しそうに口にしたあと、

「君も早いところ優子ちゃんに気持ちを伝えるといいよ」

 温かな眼差しとともそう告げた。 

 

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