三
その夏休み、優子に頼まれた雄太郎は件の旅館に短期のバイトで入った。
「人手が足りなくてさ。お願い」
どことなく心苦しそうに頼まれてしまえばどうにも断りづらく、俺でよければ、と答えていた。その場で飛び抱きついてきたのには参ったが、優子の仕事に興味があったのも事実だった。
仕事はおもに部屋の清掃、重量物の運搬、一部の料理の配膳だったが、ろくな就労経験がない雄太郎は毎日のように道を間違えたり、皿を落としたりしたうえで、ことあるごとに仲居の黒沢という気の強そうな若い女性に怒鳴られた。
なんでこんなことをしているんだろう、と夏休みが苦しみで削られていくのに理不尽を感じつつ一日のバイトを終える度、
「お疲れ。今日も絞られてたねぇ」
気の毒そうな目を向けながら近付いてきた優子に缶ジュースを渡され、慰められるのがお決まりになっていた。
バイトを始めてから一週間ほど、例のごとく飲み物を受けとったあと思わず、優子はすごいなぁ、と呟いた。
「なにが?」
あっけらかんとした様子で聞き返してくる少女に、ちゃんと仕事してるんだなってと応じる。優子は、なにそれとおかし気な表情を浮かべ、
「あたしはあたしのやれることをしてるだけだよ」
などと口にした。
それがすごいんだよ、と雄太郎は思う。
紫の着物に身を包んだ癖っ毛の少女が、背筋をピンと伸ばして廊下を歩く姿。半ば小走りしているはずなのに、その足取りは優雅で余裕を感じさせた。細腕は重さをものともせず、ほとんどが年上である同僚たちとの会話にも緊張はなく口ぶりにも淀みはない。こうした一つ一つが、雄太郎には大人を感じさせた。
「あたしは何年も同じことしてるから、それらしく見えるだけだよ。ユウタロウも、その内慣れてくるって」
だから頑張れ。励ましてくれる友人の声。本当だろうかと半信半疑ながら、わかった、と頷く。信じてくれるのだから、期待にこたえたかった。
「やあ、優子ちゃん。奇遇だね」
唐突にかかった声。途端に優子が苦虫を嚙みつぶしたような顔をする。反射的に声の方を見やれば、無精ひげを生やしたひょろりとした若い男が立っている。雄太郎自身も何度か見たことがある顔だ。
「こんばんは、安田さん。今日もふらふらしてるんですか」
優子の表情からは先程まであった険しさは消えてこそいたものの、どことなく攻撃的だった。
「うん、ちょっとつまみ食いをしようかなってね」
安田と呼ばれた男の方も悪びれるでもなく応じる。優子の言動から察するに、常連の客であるのは間違いないだろう。だとすれば、厨房に伝手があったりするのかもしれない。そんな推測をたてていると、
「だったら、さっさとどこへなりとも行けばいいんじゃないですか」
友人があからさまに男を追い払おうとする。客相手にそれはまずいのではないのか、と心配する雄太郎の前で安田は気にした様子もなく、そうだね、と目を細めたあと、
「どうやらお邪魔虫だったみたいだし、退散させてもらうよ」
踵を返した。そののろのろとした後ろ姿に、優子は険しい視線を注いでいる。
あの人となにかあったのか。素朴な疑問に、優子ははっとした様子で向き直ったあと、苦笑いをする。
「ちょっと、ね」
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