第3話 白日夢と三内丸山古墳

60歳の誕生日から一週間後、台湾から日本経由でチェコのプラハへ行きました。 日本で言う冬のない、台湾南部に10年近くも住み、思いっきり寒いところへ行きたいと思ったのです。(往復5万円という、破格の航空券が手に入ったこともあり)

到着した日から1週間は、朝から晩まで青森のような大雪でしたが、それ以後、日中はかなりぽかぽかしてきました。 ある日の夕方3時頃(~6時頃)、私は図書館(かコンサートホールか)の広くて長い階段の上で、ぼんやりと夕暮れの空を眺めていました。

その時、白昼夢を見たのです。 それは、昔よく釣りに行った、鎌倉の近く逗子・葉山あたりの海岸線とそこに突き出た、こんもりと木々の生い茂った山(半島)の景色でした。生まれて初めてというか、60歳にして初めて見た白日夢。

あれから、数年経ちますが、やはり、そんなものは見たことがありません。

大体、私は夜寝ている間に夢を見ない。 いまでこそ、ジジイなので夜中に何度か起きてトイレ、なんていうことがありますが、そういう眠りの浅い時ですら夢を見ない。


私は「寝ているあいだに夢を見ない」のは、純血種の特徴ではないかと思っています。高校時代の同級生の在日韓国人は、しょっちゅう夢を見る、と話していましたが、それはフロイトと同じで、一人の人間の中に幾つもの人格があると、それら幾人もの遠い記憶が夢となって現われる(のではないか)。


フロイトは、それを「夢判断」なんて、駅前で見かける占い師のようなことをいったのですが、ユダヤ人の全世界的な組織力で「精神分析」なんていう(いい加減な)学問になってしまいました。


さて、厳寒の欧州旅行から帰ると、今度は、豪雪の青森へ行きたくなりました。 ある日、青森市郊外で自転車に乗っていた私は、全く偶然に「三内丸山古墳」に行き着いたのです。当時は無料でしたので、ずんずん入ると、広く開けた集落が目の前に現われ、その瞬間、妙な懐かしさを感じて、しばらくの間ボー然と立ち尽くしました。景色全体に見覚えがあるような気がしたのです。


集落の中を見た後、展示館に入ると、この辺り一帯を模したジオラマ(実際の風景に似せて小型模型を配したもの)がありましたが、その模型こそ、あの白日夢そのものだったのです。現在の三内丸山古墳は、海岸線から数キロ奥にあるのですが、1万年前は海辺であったので、まさに私が見た夢と同じ景色だったのです。 また、青森市郊外の「かっぱ温泉」という銭湯の近くで、こんもりした木立のなかに大きな石が置いてあるだけの、小さな社(やしろ)から見る三内丸山古墳の辺りの景色にも、懐かしさを感じました。

私は今までいろいろな(田舎の)景色を見てきましたが、きれい・美しい・素晴らしい景色というのはあっても、「懐かしさが湧いてくる景色」は見たことがありませんでした。 ただ単に景色を眺めているというのではなく、その景色に自分が溶け込んでいくような錯覚を覚えるような場所に出会ったのです。


  人が旅行、特に一人旅を好む(人が多い)のは、無意識のうちに、心の中にある「故郷・ふるさと」の遠い記憶を探し求めているからではないでしょうか。

遙か遠い昔に、自分が住んでいた場所へ戻り、慣れ親しんだ景色に浸りたいという無意識ながら強い渇望。それは、政府やマスコミによって作られた言葉だけの「ふるさと○○」ではなく、真の自分が遠い昔に生まれ育った「原点」を求める旅でもあるのでしょう。

  私は、アメリカでも台湾でも欧州でも、きれいな景色を見たことは無数にありますが、その景色に身も心もどっぷりと浸るような錯覚を覚えたのは、三内丸山古墳の辺りだけでした。

  これが自分で自分を縄文人と、私が自覚し始めた原点であり、以来「私は縄文人」になったのです。人からすると「なんて単純な奴」と思われるでしょうが、「単純明快」なのが単一純血種の特徴なのです。


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そんな私にとって大切なのは、生きている間以上に、死んでからも自分の魂が他の人種と混じり合わないということです。韓流や欧米流の感性に染まらないようにする。ゼニカネのことで彼らと関わるのは仕方ありませんが、心・魂に於いては明確にdistinguish(区別)する。

芥川龍之介ではありませんが、中国やロシア、ドイツやフランス・イタリーといった国(人種)とは親近感が湧くのですが。 韓・米・台湾客家というのは、どうも異質で、しっくりこない。

アメリカにいる時、アメリカン・インディアンの家族と仲良くなりましたが、彼らは確かに「スピリッツ」を持っている。アングロサクソンとは違う「魂の存在感」があるのです。


<引用開始>

芥川龍之介「愛読書の印象」から

「・・・私は、静かな力のある書物に最も心を惹かれるやうになつてゐる。ただし、静かなと言つてもたゞ静かだけで力のないものには余り興味がない。 スタンダールやメリメエや日本物で西鶴などの小説はこの点で今の僕には面白くもあり、又ためにもなる本である。  

子供の時の愛読書は「西遊記」が第一である。これは今日でも僕の愛読書である。比喩談としてこれほどの傑作は、西洋には一つもないであらうと思ふ。名高いバンヤンの「天路歴程」なども到底この「西遊記」の敵ではない。  それから「水滸伝」も愛読書の一つである。これも今以て愛読してゐる。一時は「水滸伝」の中の一百八人の豪傑の名前を悉く諳記あんきしてゐたことがある。<引用終わり>***「西遊記」は、岩波文庫 小野忍訳(1~3巻)絶版 が一番。***

アングロサクソンが絶滅させたアメリカン・インディアンの魂の部分を見ることができたのは、フランス人です(「インディアンの言葉」紀伊國屋書店刊)


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以来、頭ではなく身体で感じて判断し行動することにしました。 一山(袋)いくらのバナナを買う時は、何度も重さを手で量る、なんてことをしてますが、何ごとも直感というか行き当たりばったり(で決める)。

自分の根底に「オレは縄文人である」という確固たる自覚がある以上、なにをやっても「縄文人の道」から外れることはない。そして、いつ死んでも再び「縄文人に還る」ことができる、なんて信じているのです。

続く


2022年11月21日

V.1.2

2023年11月22日

V.2.1

平栗雅人

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縄文人への道 V.1.2 @MasatoHiraguri

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