第二章 秘薬安駝駝 3

 濡れそぼった悟空が全身から水滴を滴らせながらばしんと分厚い扉を叩きつけて開けると、そこには大きな円形のソファーがあった。


 目を丸くした玄奘が悟空を見るなり駆け寄ってこようとするが、隣に座ったままの紅害嗣に手を引っ張られ、再び座らされる。


 そして紅害嗣はVIPルームへの乱入客を止めようとしていた店員達に対し、「俺の客人だ」と言って散らせた。


「悟空……来てくれると信じていた。そんなにずぶ濡れで……私のために急いでくれたのだな」


 玄奘は目を潤ませている。悟空はがしがしと大股で近づき、円卓を挟んで紅害嗣と相対する。


 見たところ玄奘は縛られてもおらず、怪我をしている様子はない。悟空は内心安堵しながらも、濡れた前髪を掻きあげ紅害嗣を睨んだ。


「玄奘を返せ」


「玄奘は俺の隣にいたいんだってよ」


 紅害嗣はにやついた。隣の玄奘は首を振っているが、なぜか逃げる様子は見られず紅害嗣と手をつないだままである。


「玄奘を攫うのはこの前で懲りたと思ったんだがなあ。お前にはまだ仕置きが足りなかったらしいな」


「攫ったとは心外だな。美味しい料理を馳走していただけのこと。別に玄奘に何の危害も加えてないしな。しかし、よくこの場所がわかったな」


 紅害嗣はまったく悪びれる事なく言い、それを受けて玄奘が澄まして答えた。


「それは愛によるものだ」


 悟空はぎくりとしたが、構わずに玄奘は続ける。


「私と悟空は愛しあっているから居場所くらいすぐにわかるのだ。な?悟空?」


「……そ、そうですね……」


 かあぁ、と頬が熱くなるのがわかる。


 どうやら玄奘は酔っているようだ。酔った玄奘に二人きりで迫られるのならまだ我慢はできるが、他人の目がある中で積極的に迫られるとどのような態度をとればよいかわからない。


 紅害嗣に対して恋人のふりをしているだけに下手な態度も取れないのがまた面倒なところだ。


 玄奘は緊張した場面にはそぐわない微笑みを浮かべたまま、とろんとした瞳を潤ませている。


「お前……玄奘に呑ませやがっただろう」


「グラスにたったの二杯だ」


 玄奘にとっては潰れるのに十分な量だ。


「妙な事してねえだろうなぁ?」


 本当はその生意気な襟首を掴んだやりたいのだが、円卓が大きすぎて手が届かない。


「妙な事とは……?たとえばこんなことか?」


 紅害嗣は玄奘の顎に手をかけ、優雅に持ち上げると、その顔香りかんばせに口付けた。


 一瞬で頭に血が上った悟空は、皿で埋め尽くされた卓上に跳び乗った。悟空が蹴散らした食器が床に散らばり、高い金属音がする。そのまま卓を足場とし、紅害嗣を殴りつけた。 


 溜めずに繰りだした殴打だったが、隙をつかれたせいか紅害嗣は斜めに体制を崩した。それに引っ張られるようにして、玄奘も一緒に倒れた。


「お前っ、いい加減玄奘から手を離しやがれっ」


 紅害嗣は切れた唇の端を舐めながら身体を起こしたあと、これ見よがしに左手を高く掲げた。その手は玄奘の右手とつながれていた。


「中国四千年の歴史を誇る秘薬安駝駝あんだだだ。これを塗ってつながれた手は三日三晩離れんぞ。殴りたければ殴るがいいが、俺を吹っ飛ばせば玄奘も一緒に吹っ飛ぶことを忘れるな」


 さっきから二人がずっと手を握り合っていたのはこのせいだったのだ。


「このガキがっ。やっぱり姑息な手を使いやがって」 


 悟空はぎりぎりと歯噛みすることしかできない。


「上の階に部屋をとっている。三日三晩二人きりにしてくれ。玄奘には危害を加えず、優しさの限りを尽くすと約束しよう。三日後の玄奘は俺と離れたくないと泣くかもしれんがな」


「そんなこと納得できるわけないだろうがっ」


 悟空は苛立ち、玄奘は「悟空……」とぽろぽろと涙をこぼすことしかできない。


 何か手段はないのか、と悟空が周りを見渡した瞬間、張りのある大声がした。


「さあて紅害嗣め、神妙にお縄を頂戴いたせっ。さもなければまた私の裏拳をくらうか?」


 勇ましい声は磁路だった。後ろには「スタジオにいとく約束だったろう?なんで攫っちまうんだよ!」とぼやく八戒、悟浄、玉竜、そして納多もいた。





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