第一章 恋人のふり 2

 さて同じ頃、悟空は彼らのマネージャーである磁路の前で頭を抱えていた。


「玄奘がかわいすぎてしんどい……」


「大聖殿にとってはいつものことでは?」


 磁路がさらっと受け流すと、悟空は頰をかいて口ごもった。


「いや、まあ……それはそうなんだけどよ……」


 どうやら聞いてほしい話があるらしい、と悟った磁路は悟空のためにコーヒーを淹れてやった。


 ちなみに磁路は人間ではなく、天界の将である顕聖二郎真君の変化した姿であるので、下界の食べ物は口にしない。それでも日々マネージャーとして人間達が求めるものを提供することができるよう、他者に対する気遣いを学習している成果である。


「この前のライブの打ち上げでさ、玄奘がめずらしく酒を呑んだだろ?お釈迦さまの誕生日だとか言ってさ」


「玄奘は酔ってすぐに寝てしまったではないか。酒を呑み慣れない者は加減を知らぬなと思って見ていたからよく覚えておる。そのあと大聖殿と一緒に帰ったのではなかったか?」


「そうなんだよ、家に帰ってからが大問題だったんだよ」


 悟空によればこんな状況だったらしい。






――――――

「さあ、家につきましたよ、玄奘。」


 上背は玄奘の方が高いのだが、悟空の方が体力はあるし酒にも強い。まったく危なげなく肩を貸して玄奘を連れ帰った悟空は、かいがいしく玄奘の靴を脱がせた。


「ああ……、眠い……」 


 玄奘はそのまま床で横になろうとする。推しを硬い床の上で寝そべらせるわけにはいかない。悟空は彼の腰を支えて、ソファに座らせた。


「玄奘、呑みすぎですよ。今、水を持ってきますから」


 玄奘は悟空の裾をつかんで引きとめた。


「待って、ここにいてほしい」


 隣に座った悟空の顔を両手で挟み、玄奘はまじまじと覗きこんだ。


「あはは、悟空がいる」


「はい、いますよ」


 至近距離で見つめてくる玄奘の表情は酒の効果かいつもよりもゆるんでいる。


 しどけなくゆるめた襟元も、色づいた首元も、ほてった息づかいも、あらぬ妄想を刺激してくるので、悟空はつとめて真面目な顔をしてごまかすことにする。


「どうして怖い顔をしているのか?」


「……生まれつきこんな顔なんですよ」


「嘘だぁ。悟空は歌っている時はもっと生き生きした顔をしている。それとぉ、私のためにいろいろと世話を焼いてくれる時も。それに、いつも一緒に眠る時に『おやすみ』と言って私の頬を撫でてくれるだろう?あのとき、いつも優しく微笑んでくれているのを私が知らないとでも思っているのかぁ?」


 玄奘と一緒にいる時の自分はそんなに浮かれた顔をしているのだろうか。まったく自覚していなかったので、悟空は慌てた。 


「ちょっと……いや、あの……玄奘……?」


「笑え、悟空。そなたの笑った顔はかわいい……」


「か、……かわいくはないでしょう……」


 玄奘は悟空の両頬をふにふにとつまみ始めた。手をふりはらうわけにはいかない悟空はされるがままである。


 一番かわいいのは目の前で無邪気に笑っている玄奘であると叫びだしたいが、ぐっとくらえている。


 デビューをきっかけにそれまで青々と剃りあげていた頭髪は、柔らかい髪質を生かしたショートスタイルになった。少しはねた毛先がひよこのようで愛らしい。


「笑え、笑え。笑えってば、なあ悟空ぅ……」


 酔っ払いには理屈は通じない。悟空はため息をついた後、にぃっと歯を見せてみた。笑顔ではなく頬が上がった程度だったが、玄奘は満足そうに頷いた。


「よしよし、そなたはかわいいぞ」


 ぐりぐりと乱暴に頭をなでられた。


「こんな目つきもガラも悪いおっさんがかわいいわけないでしょう」


「さて、それはどうだろうか。そなたの御両親だって、きっとそなたのことをかわいい、かわいいと思って育てたのだろう?」


「……おれは親なしです」


 事実を口にしたところで今更、胸は痛まない。今まで話題にしてこなかったのは、心優しい玄奘はきっと自分以上に苦しく思うことがわかっていたからだ。


「……」


「二つか三つの頃、施設に預けられました。たぶんあの女はシングルだったと思うけどもうよく覚えてません。結局預けられてからは一度も会ってませんし」


「それは……すまぬことを聞いた。苦労してきたのだな」


「別に苦労とは思ってないですよ。施設の先生はピンキリだったけど、あの女に育てられるよりはまともな環境だったし、下手な親に育てられるよりはましだったと思ってます」 


「下手な親……そうかもしれぬ……」


 玄奘が小さな声で呟いた。そろそろ眠くなってきたのだろう。


「さて玄奘、もう水を飲んで寝た方がいいですよ」


「だめだ、離さぬ」


 話を切りあげようとしたことに気付いたらしい玄奘が、ひっしと抱きついてきた。


 酒くさい息の中に、いつもの柔らかい玄奘の香りが混ざっている。思わず玄奘の背に腕をまわしかけてから、悟空は慌てて手を引っ込めた。


「なあ、悟空……」


 夢をみているようなぼんやりした玄奘の声が、耳元で聞こえる。


「なんですか」


「われわれJourney to the Westは一体どこへ向かっているんだろう。われわれはこのまま歌い続けていけば、本当に人の心に安穏と平和をもたらせるのだろうか」


 迷子のように心許ないその声音に、悟空の心は震えた。この人は怖がっている。本来芸能界などという華やかで軽薄な世界が似合う人ではないのだ。


 玄奘にとっては誰にも邪魔されず無心に経典を唱えている時が一番気持ちが落ち着くということも悟空は既に知っている。悟空は、今は迷わず玄奘を抱きかかえ、悪夢にうなされる子どもにするようにゆっくりと撫でた。


「玄奘、われわれができることは歌うことだけじゃないですか。千里の道も一歩から。他にできることがない以上、一歩一歩進んでいくしかないんです」


「そうだな……しかし私は時々、はるかな砂漠にぽつんと一人取り残されたような気分になるのだ……」


「……玄奘、たしかに今あなたがいるのは孤独な砂漠かもしれません。でも、いつでもおれはあなたの傍にいます。何があってもずっと離れません」


「悟空……」


 玄奘は息を呑んだ。その目が潤んでいるのは気のせいだろうか。


 次の瞬間、悟空の唇に玄奘のそれがふれた。ゆっくりと押しあてられた唇は、離れる時もまたゆっくりだった。


「おやすみ……」 


 玄奘は抱きあったまま、悟空の肩に頭をもたれかからせて眠ってしまった。後には唇を抑えたまま、動悸を抑える悟空が残された。








――――――

「ほう。それがきっかけで二人はついに恋人に?」


 磁路は興味深そうに頷いた。


「違えよ」


「では一晩寝て起きた玄奘は、キスを覚えていなかったのだな?よくある話だ」


 二郎真君として天界に君臨していた彼はもう少し単純明快な考え方をする男だったのだが、磁路として人間に扮して下界で生活するうちに人間の感情の機微を理解するようになってきたらしい。ちなみにJourney to the Westが所属する芸能事務所シャカシャカの社員は全て天界人であり、人間ではない。


 悟空はふてくされた顔で頬杖をついた。 


「なあ、なんで玄奘はキスなんてしてきたんだろう?」


「玄奘は大聖殿のことを好きなのでは?」


「ちっげえよ、バカ!そんなわけねーだろっ!相手はあの仏教オタク玄奘だぞ?浮いた話なんかあるはずねえだろ?おれに対する感謝とか、敬意とか、そういう意味じゃねえの?」


「大聖殿は玄奘から好かれたくないのか?」


「大バカ野郎だな、てめえは。好かれたくないわけがないだろう?玄奘はおれのすべてだぞ。好かれたいよ、そんなの好かれたいに決まってる。でもあの尊い玄奘が、ただのオタクのおれなんかのことを好きになるなんてそんなこと起こるわけがねえ」


「前世も今世も相も変わらずこじらせておるのぉ」


「前世なんて知るか。いいか、推しとオタクの関係性っていうのは例えるなら太陽とひまわりなんだよ。ひまわりはずっと太陽の方を向いているだろう?でも太陽の隣に行きたいとは思ってないわけだ。だって燃え尽きちまうもんな。太陽だって自分を見てくれる何億ものひまわりのことは大事に思ってるだろうさ。でもひまわり一本一本のことまで気にかけたり、そばにおきたいとは思わねえんだよ。太陽とひまわりは存在する次元が違いすぎるんだよ。推しとオタクには越えられない壁ってもんがあるんだ。玄奘にふれていい存在なんかじゃねえんだよ」 


「なるほどな、大聖殿のオタク論は興味深い。たしかに以前はそういう関係だったのかもしれぬ。しかし、今の大聖殿と玄奘は同じジャニ西のメンバーとして支え合っているのではないか?もう対等な関係と見なしてもよいのでは、と思うがな」


 磁路の指摘もまた正論である。悟空は冷めたコーヒーをすすった。


「ただのオタクのおれが玄奘のそばにいられるだけで光栄なんだ。それ以上の関係を望んだって無駄だよ。玄奘がおれのことなんて好きになるわけがない」


 それはもう推しとオタクの関係性の問題よりも、自分に自信がないからでは、と気付いた磁路ではあったが、正直に指摘しないだけの優しさも持ちあわせていた。


「……思いもかけぬことが起こるのが人生というぞ」


「そうだよ……。思いもかけぬこと。玄奘からキスしてもらえるなんて……今でも夢だったんじゃねえかと思うくらい、すげえ嬉しくってさ……。もう普段の玄奘見てるだけで、ますます可愛く見えてきちまって。またキスしたいなとか思ってふらふら近寄ってしまいそうでさ……。なるべく距離おいて近付かないように気を付けてはいるんだけど、我慢できなくなっちまいそうでさ……」


「もしや、大聖殿はファーストキスだったりするのか?」


「違えよ。……いや、待て。もしかして玄奘は……」


 悟空は両手で口を抑え、頬を赤らめた。今の悟空からは普段ファンに見せているワルぶった雰囲気は微塵も感じられない。ただの乙女である。


 磁路は冷静に指摘した。 


「酔って、誰かれかまわずキスしまくってるかもしれんがな」


「あー、そうだった。おれにするくらいだから、誰にでもしてんのかもしれねえっ。くそっ」


 悟空は頭を抱えて歩きまわった。


「玉竜とかあやしいな。あんなに傍にいるんだから一回くらいキスされててもおかしくねえな」


 玄奘と玉竜は同じ大学に通っている友人である。悟空たちに出会う前、彼ら二人組でVtuberとして活動していた経歴を持つ。


 玉竜は今、事務所シャカシャカに属するアーティストに曲を提供する作曲家として活動している。


「すみませーん。遅くなりましたー」


「待たせて申し訳ござんせんのう」


 会議室のドアを開けたのはその玉竜と、Journey to the Westのプロデューサーである太上老君たいじょうろうくん(人間としての通称も「太上太上たうえ」で通している)だった。ちなみに玉竜の前世は西海竜王敖閏の第三太子であったが今世はただの人間である。


「おい、お前。玄奘とキスしたことあんのか?正直に言えば殴らねえでやる」 


 部屋に入った瞬間、胸倉をつかまれた玉竜は逆上した。


「昼間から頭沸いてんの?磁路さん、この暴力猿どっかにやってくれる?早く新曲の打ち合わせしたいんだけど」


「大聖殿、まあ落ち着きなされ。ほれほれ、美味しいお茶菓子買ってきたしのぅ」


 プロデューサー太上は平和主義者である。


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